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老いについてもう一度 [介護と日常]

およそ四半世紀続けてきた仕事から離れることになった。今後のことは皆目見当がつかない。この件についてはあらためて書くことはあるかもしれないし、触れることもないかもしれない。
幼なじみが(彼は今仕事で関西に出てきている)事情を聞きつけて一度会おうということになった。
7日火曜日に四条通のジュンク堂書店で待ち合わせをした。待ち合わせの時間までのぞき込んでいた本を翌日改めて本屋に行き、買った。読みづらい内容だった。どこかに理解のきっかけがあるはずだと思いながら読んでいた。
きっかけは、miyataさんの記事だったが、減算、喪失としての老いを考えると分からなくなるのは、そこに老いがないからではないか、と思ってみたりした。
徒然 #1 - 渓谷0年
減算、喪失としての老いを考えるとそこには老いがないという指摘に、理解の戸が開いたような気がした。以下、読みづらかったその本から引用する。
1 老齢への誤認と自己の例
六十歳以降の症状と対応
 老齢化で一番辛いことは、身体の動きが鈍くなり、足腰が弱くて痛みがともなうといったことではない。自己の意力や意志、そう志向することと、それに従って実現しようとする行為や運動性との「背離」が著しく増大することだ。
 これは若い人にはわからない。老齢だから身体を動かすのが億劫なんだと誤解している。丁寧にいえばそうに違いないのではあるが、真の原因はこの意力と行動との背離性にあるのだ。これは専門と素人、熟練と浅い経験との違いではなく、老齢に固有のものだ。
 わたしたちのような引きこもりを職業的専門にしてきたような老齢と、運動性を職業にしてきた老齢は、同じ老齢でもこの背離を助長する職業と、この背離を縮めることを職業としてきた者としての決定的な相違がある。この見方からすると、老齢は年齢ではなく、この意力と身体の運動性の背離の大小だといってよいとおもう。これを老齢の二重性として理解できるかどうかが、ほんとうの科学性だと思う。
2 意志と行為の背離
老齢とは意志と行為の背離のことをいう
 動物身体の運動性は人間を除いてすべて反射的なものだ。意志と行為のあいだに分割や間隙がない。人間は意志することと身体運動を起こすことのあいだに時間差があり、そのあいだにあらぬ空想を交えたり、想像にふけったり、妄想や思い込みにとらわれたりする。これは身体行動を鈍く遅くするが、思考や想像力を豊かに発達させ、言葉を生み出すことに寄与してきた。
 老齢者は身体の運動性が鈍くなっていると若い人はおもっていて、それは一見常識的のようにみえるが、おおいなる誤解である。老齢者は意志し、身体の行動を起こすことのあいだの「背離」が大きくなっているのだ。言い換えるにこの意味では老齢者は「超人間」なのだ。これを洞察できないと老齢者と若者との差異はひどくなるばかりだ。老齢者は若者を人間というものを外側からしか見られない愚か者だと思い、若者は老齢者をよぼよぼの老衰者だとおもってあなどる。両方とも大いなる誤解である。一般社会の常識はそれですませているが、精神の「有事」となると取り返しのつかない相互不信になる。感性が鈍化するのではなく、あまりにも意志力と身体の運動性との背離がおおきくなるので、他人に告げるのも億劫になり、そのくせ想像力、空想力、妄想、思い入れなどは一層活発になる。これが老齢の大きな特徴である。このように基本的に掴まえていれば、大きな誤解は生じない。老齢者がときどきやる感覚的なボケを老齢の本質のようにみている新聞やテレビ、あるいはそこに出てくる医師、介護士、ボランティアなどのいうことを真に受けると、とんでもない思い違いをしていて、老齢者をほんとうのボケに追いやることがあり得る。身体の運動性だけを考えれば、動物のように考えと反射的行動を直結するのがいいに決まっている。
 けれど高齢者は動物と最も遠い「超人間」であることを忘れないで欲しい。生涯を送るということは、人間をもっと人間にして何かを次世代に受け継ぐことだ。それがよりよい人間になるかどうかは「個人としての個人」には判断できない。自分のなかの「社会集団としての個人」の部分が実感として知ることができるといえる。
3 自他の違い
「自然の順位」のみが老齢の意
 老齢は身体の生態的な自然を前提とする限り(つまり事故を除けば)、誰でもが体験するのに誰でもが老齢を体験しなければわからない点を含むということだ。つまり自然の「順序」がもたらす差異にほかならないのに社会的な「順序差異」としてしか言葉では表現されないことだ。老齢者自身も、それに大なり小なり接触する場面をもつ人もおなじように「自然の順序」を「社会の順序」に置き換えて考えているとおもう。おまえはどうだといわれれば、即座にわたしもそうだというほかない。これは間違いだということはわかっている。どうすればいいのかもわかっている。社会が全体的に「自然の順位」による差異だけを保存し、社会での個人、個人の心の全体性を「自然の順位」の差異にすればよい。このうちいちばん難しいのは(少なくとも老齢のことについては)、個々人の精神の全体性において「自然の順序」による差異以外のものを廃棄することだとおもう。

「姥捨て伝説」と「手がかり神」の意味するもの
 現在では老人ホームの施設や介護保険の制度もまがりなりにあり、専門の介護士や医師もいる。しかしわたしの考えでは、老人ホーム的な施設はすべて社会助成を受けて無料、無償とし、介護の医師、介護士、看護師は職業としてその社会(時代)の最上の給与を支給されるのでなければならない。これが前提の第一だとおもう。それなしにはほかのことは成就できない。

 老齢者の保護、介護、保険、年金の課題は、身体障害者の問題を包括するものとして国家や社会の不当な権謀の消滅という課題と同等の重さを持っているとおもう。通貨の共通化までやっと到達するに至った、欧州共同体の民族国家解体の問題と、老齢者、身体障害者の完全な保護の問題は分離しつつも並行すべき車の両輪のように真に逸してはならない課題とおもえる。
中学生のための社会科 - 吉本隆明

長い引用になってしまった。ここには私がぶつかっていた問題のほとんどすべての解答がある。
介護とかケアの言葉で語られる世界を見渡していて、いつも釈然としない思いを抱くのはなぜかと問う自分があり、その問いそのものが自分をひどく孤独な場所に追いやっているのではないかと焦燥にかられていた。いつも目の前の小さな問題にぶつかり、毎日のエネルギーの大半を消費してしまった後の徒労感は、単に楽しいレクレーションに置き換えて忘れようとしても埋められない。なにかが欠落していると思った。
吉本隆明のこの発言をおそらく多くの人はたんなる理想論だとして片付けてしまうだろう。私は理想論として片付ける現実論が自分を縛り、自分も他者も苦しめていることを眺めてからもう一度息を詰めて自分の現場に向き合おうと思う。

Mさん、やはりあなたの書いたことは正しいとおもう。私はただ自分の疑問だけを漂うようにしか書けなかったが、書いてみて良かった。

追記:引用した「中学生のための社会科-吉本隆明」という本のタイトルについて違和感を感じる人が多いようなので、自分の記事でカットした部分を追記として載せます。

『奥付によるとこの本が刊行されたのは2005年3月1日となっている。吉本はこの前後にインタビューをそのまま書籍化した単行本を悪くいえば粗製濫造のように矢継ぎ早に出していた。「幸福論」とか「超20世紀論」とか「超戦争論」とか「人生とは何か」といった一連の本と、「食」や自らの「老い」についての本も同じスタイルで出していた。伊豆で溺れて以降肉体的な条件が旺盛な執筆欲を満たすことが出来なくなったので、こういうスタイルをとらざるを得ないのだろうと思っていた。何冊か読んだが、だからといって内容的に劣るという感じは受けなかった。しばらく吉本の著作を読まずにいたが、この時期の本をポツポツと読んでこの人はちっとも衰えていないなという感想を持った。
待ち合わせ場所である書店の棚を見ていてふと吉本のコーナーを見ると以前の三分の一ほどの分量になっているのに気がついた。若手の評論家や学者が著作を充実させて書店の棚に増殖しているのと対照的だった。その吉本のコーナーを追うとほとんど持っている本ばかりだったが、一冊だけこの「中学生のための社会科」は読んでいなかった。
最初このタイトルは際立って変だなと思った。ほんとうに中学生のために書いたのだろうかと手にとった。「はじめに」で次のように書いていた。
「この本の表題として『中学生の社会科』というのがふさわしいと考えた。ここで「中学生」というのは実際の中学生であっても、私の想像上の中学生であってもいい。生涯のうちでいちばん多感で、好奇心に富み、出会う出来事には敏感に反応する柔らかな精神をもち、そのうえ誰にもわずらわされずによく考え、理解し、それして永く忘れない頭脳を持っている時期の比喩だと受け取ってもらってもいい。またそういう時期を自分で持っていながらそれに気づかず、相当な年齢になってから「しまった!」と後悔したり、反省したりした私自身の願望が集約された時期のことを「中学生」と呼んでいるとおもってもらっていいとおもう。」
と書いてあった。目次に目を通すと想像していたものとはまったく違ったものだった。詩、言語、老齢、国家についてインタビューではなく書き下ろしたものだった。すぐに買おうかと思ったが友人と会うのに荷物を持つのは嫌だなと思いなおして後日買いに来ることにしたのだった。』

つまり、この本は中学生の「ために」書かれたというものではなく、本のタイトルとしてそう書かれたというものです。最初とても読みづらかったのは、うまく言えませんが評論や論考のような書き方ではなく(対象となる引用などはほとんど省かれている)、思想を文学表現のように書いているからだと思いました。とても緊張を強いられる内容でした。記事では触れてませんでしたが、唸らされたのは(自分はなにも理解していないなという意味でです)一章の「古典以前の古典」と「表記される日本語とその特性」の節でした。

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