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あけましておめでとうございます。 [介護と日常]

年が明け、三が日が過ぎた。のんびりと正月を過ごした。
あけましておめでとうございます。

昨年の事を少し振り返ると、妻は何年かに一度は大病を患うが昨年はちょうどその年に当たったらしく2月に胃ろうの交換で入院中に腹膜炎であることが発覚して日赤に転院した。お腹に溜まった膿を体外に出す処置をして体力が回復したら開腹手術をする段取りであったが手術は免れて5月に退院できた。その後は比較的に穏やかに過ごしている。

猫のことは書いただろうか。いろいろいきさつがあって路地に迷ってきたネコを保護した。その猫はまだ子猫かと思われたのだが妊娠をしていたことが発覚した。間違いなく初産であろうが、なんと7匹も出産したのが一昨年の5月。4匹は子供の知人達にもらわれて3匹が残った。その子猫たちが1歳の誕生日を迎えた。3匹とも雄猫で賑やかなこと、賑やかなこと。

私の事を少し。昨年の10月、お国公認の高齢者となった。
介護生活が始まって14年目に突入した。妻が倒れた日は自分の誕生日の数日後だったからよく覚えている。10月の6日に日が変わろうとしたときだった。最初にブログを立ち上げたとき、人は予測の範囲で生きられるわけではないと書いた。このとき念頭にあったのは私にとっての阪神大震災だった。あれから自分が何を考えていたのかほとんど記憶が無い。海外の知人が激励の手紙をくれたとき、直接の被災地ではないから大丈夫。ただ、日本は今までのような日本ではなくなる。違う世界に向き合わなくていけなくなるだろうと返事したことを記憶している。何がどう変わるのかもちろん私にはわからなかったし今もわからない。

6年前には東日本大震災が襲った。その規模は阪神大震災をはるかに超えるものだった。原発が壊れた。あれから断続的に大地震が続き、台風などの自然災害や大火の被害が相次いでいる。妻はまるで共振するかのように何度も死線を彷徨った。私にはどうすることもできず、ただ今あるその現実に向かい合っているだけの日々を送っている。無力感にさいなまれているわけでもなく、ただ諦めているだけでもない。かろうじて意志を繋ぐ、そのことが可能なのか私なりの決意を含めた処し方である。

年の初めからなんともおめでたくないようなことを書いてしまった。妻は今年の年女である。長い中断となったが、今年もよろしく。

よいお年を。 [介護と日常]

今年五月かなり苦労してパソコンを新調した。少し長い文章(ブログ)を書いてみたいと思ったからだが、自分で改造したおそらく元は台所跡であろう物置だった小部屋に置かれた真新しいモニターの前に座るととっくの昔に底が抜けたザルのようになっている自分と出会っただけだった。
表向きは前よりずっと淡々と暮らしている。だが、日々日常の生活が言葉で語る平坦なままであるはずがない。

何げなく通り過ぎてしまうことに立ち止まる。きっと、もうそんなことしかできない。だから厭わずに立ち止まるようにと自分に言い聞かせている。が、それもなかなか難しい。

老いたという実感は実はさほどない。身体の動きを除けば。だが、どこかに向けて歩きはじめている気がする。つまり、立ち止まることができる道にいるわけだが行き先はない。

食べることも話すことも動くこともできない妻との生活は変わらず続いている。妻も自分が元の姿に戻れることはないとおそらく自覚している。その現実を引き受けることも生きることだと言っているようにみえる。そこがきっと私との交点だろう。一日の大半を目を閉じて過ごす妻とはもうわずかな時間の間でしか出会えない。だけど、こんな日々がまだ続くことを願っている。

前にここで年越しの挨拶をしてから二年が経っていた。短くはない時間だった。明るい希望や未来では表せないような世界の入り口に、いやもう引き返せない世界を歩んでいるのかもしれない。それでも、ふと見過ごしてしまうかのような何げない仕草や吹きすぎる風に気づく場所があれば、そこが私たちの橋頭堡になるだろう。

心安らかな年が明けますように。よいお年を。

※SilverMacさんが亡くなられていたことを知った。なんといううかつ。今は言葉もない。ご冥福をお祈りします。

よいお年をお迎え下さい [介護と日常]

(今これを書いているのは、HDがうるさくうなり声を上げながら止まりそうでかろうじてネットに繋がっているおよそ13年前に中古で買った(つまり、さらに古い)ウインドーズノートだ。前回の記事を書いてから書きためていた頼みのMacが壊れた。Silvermacさんから譲ってもらったMacだった。あのMacもすでに何世代も前の骨董に近いマシンだったが何をするにしても必要かつ充分な(すでにかなり不十分だったが)環境ができていた。もう新しいマシンを買ってあの環境を再現する余力も気力もない。)

今年も残すところあと一日。せめて年内の挨拶だけはと思い書き始めました。今年もお世話になりました。私はペインクリニック治療が功を奏して普段の生活になんの支障もなくなりました。いくら薬を飲んでも、指導された食事療法を続けても上がり続けていた血糖値も、訪問入浴のスタッフさんから聞いた「糖質制限食」を始めてから一気に下がり始め、今では薬も飲んでいません。60歳前後に大なり小なり訪れるという老いに伴う身体の変調もなんとなく峠を越えた感があるこの頃です。

妻がまったく身体を動かすことができなくなってからはや1年が過ぎました。妻は発熱をくり返しやはり少しずつの衰えを隠せませんが時々思いだしたように怒ったり喜んだりまだまだ気力充分です。認知症をどう考えるのかと手探りで右往左往していたのが嘘のようです。今は褥瘡をつくらないようにするにはとか、拘縮を進行させないためにはとか今までとぜんぜん違う介護に明け暮れています。そして、以前より断然楽になりました。でも、ほんとうはもっと深くて高度な相対の仕方が問われているのかもしれません。そんなことを考えながら今年も終わりを迎えました。まだまだブログを撤退する気はありません。少しずつ、また折々に考えたことをブログに書いていきたいと思います。みな様、良いお年を!

壊れていました [介護と日常]

思いがけず、日にちが開いてしまった。凶暴な暑さに加え両肩、両腕のまったく経験のない深刻な痛みでまともに日常生活すら送れない状態に陥りようやく今普段の自分に復帰しようとしているところだ。しつこい肩の痛みは昨年の引っ越しの後に始まった。右肩が上がらなくなり寝返りもできない日々が続いたが、それもこの夏に襲われた痛みに比べれば単なる序章だった。

6月に入った頃、肩の痛みをほとんど感じることもなくなり、ようやくしつこい痛みから脱することができるかと思われていた頃、ちょうど妻の体温を安定させるために常時冷房を始めた頃と重なる。兄が亡くなったあとしばらくして、突然五十肩と診断された時以上の痛みを覚えた。痛み故に腕全体が痺れてしまったようだった。妻の介護は左腕を最大限使うことでなんとかこなしていたが、7月の終わりには右肩の痛みが治まらないうちに今度は左肩に激しい痛みが出た。もう両腕とも前へならえなど不可能だった。マッサージ・整体・針・町医者にかかった。治療や施術をしてもらったときだけ楽にはなったが二日と保たなかった。まともに妻の介護はできなくなってしまっていた。ついにケアマネと往診医に泣きつかざるを得なかった。痛みが回復する間、治療に専念する間だけの妻の入院を頼んだ。医師はすぐに入院の申し込みをしてくれたがなかなかベッドの順番がこない。ケアマネは自動で体位変換するエアマットを導入し、午前に一回おむつ交換にヘルパーさんを入れる段取りを組んでくれた。娘は夏休みの一週間をすべて介護に当ててくれた。私はその間、冷房のない部屋で寝て、起きては痛みの原因を探るために総合病院に通った。だが、大病院の若くて優秀そうな医師は原因を探ろうとはするが痛みを和らげてくれない。検査中は何度か鎮痛剤を変えるだけであった。だが処方された鎮痛剤で治まるような痛みではなく、やがて肘が曲がらなくなり、手首は腫れて動かなくなり、ついには手のひらの痛みに加えて、5本の指を握ることはおろか曲げることもできなくなった。右手にギブスをしたが痛みには無効だった。娘の夏休みが終わろうとしていた。妻が入院する予定の病院からベッドが開いたという知らせもないまま、何度かのレントゲン検査に続いてMRIを撮った1週間後、私は病院で若い医師を向き合っていた。若い医師は診断がつかないと首をひねった。リュウマチではない。頸椎のヘルニアも影響がありそうだ。五十肩つまり肩関節周囲炎ならばその影響は肘まであり、手首、手のひら、指には影響しない。ヘルニア箇所がその指や手のひらに何らかの影響はありそうだが、手根管症候群も疑われる。右手にでていた症状は少し遅れて全部左腕にも出てきた。私は原因はどうあれこの痛みだけなんとかして欲しいと懇願したが医師の答えは歯切れが悪かった。「うーん、何がしてあげられるのか…。確かにこの病院に来るからには、何とかしてもらえるはずだという期待を持ってこられることは承知している。しかし、できないこともあるし診断がつかなければ具体的な治療はできない。薬を続けるくらいしかないんですよ」私は少しあわてるとともに、失望を禁じることができなかった。民間療法でも町医者でもその時楽になるくらいのことはしてくれたのに、この基幹病院ではやりようがないという。私は、関節への注射とか出来ないのかと聞くと言葉を濁す。この病院での治療を諦めた。慎重すぎる診断の進め方にこの病院と若い医師に救いようのない退廃の匂いを感じた。
だがこのまま元の治療や民間療法に戻るわけにはいかない。手術も含めて考えられる有効な治療はないかと水を向けた。「手術は最終的な治療としてあるが、頸椎のヘルニアも所見ではそこまでひどくないので勧められない」では、たとえばペインクリニックということを聞くがそれはどうか?「ペインクリニックはあれは麻酔医がやることで整形ではやらないし、またこの病院ではやってない。京都でやっているのは京大、府立医大、それに開業医で何軒かあるが、やってみるつもりなら紹介状は書く」
やっとこの医師から有効な手がかりを得ることが出来た。京大や府立医大で時間をとられるのはいやだから開業医を選んで推薦状を書いてもらうことにしてこの病院と別れを告げた。料金の計算を待っている間に紹介状を書いてもらった病院に電話をかけ、翌日に受診することになった。

兄のこと 1 [介護と日常]

痩せこけた人が背筋をぴんと伸ばし直立不動で正面を見据えるように合掌している写真に、母は毎日のように線香をあげていた。その横には小さな観音菩薩座像が置かれていた。その人のことはほとんど何も知らない。祖父(母の父)ということ。死の間際の写真だということ。それ以外、母から聞いたことはもうほとんど記憶にない。あるいは何も聞かなかったのかもしれない。母の死後その菩薩像も写真も、ない。

6月29日。寝ようと布団に入ったのは明け方の4時過ぎだった。すぐに眠りに入っていくのがわかった。その時、まるで悪戯でもされているかのように後頭部の髪の毛の中に何かが動いた。虫がいるのかと思い飛び起きて頭を調べたり、枕や布団を見たのだが何もなかった。そして再び電気を消しそのまま熟睡した。

電話が鳴った。8時30分過ぎだった。兄の長男から兄の死を告げられた。明け方のこと、寝入りばなのことを思い浮かべた。
妻の方を見ると電話の様子を目で追っていた。受話器を置いた後兄が死んだことを妻に告げた。妻は大きく眉間にしわを寄せ目を閉じた。

話が前後する。6月3日に妻は胃ろうのペグ交換のために一週間の予定で入院した。
6月10日は退院の日だった。手続きを済まして介護タクシーに乗り込んだ後、急遽兄が入院している病院に行ってくれるように頼んだ。絶好の機会だった。妻とともに病室に行くと一瞬兄は驚いた顔をした。「エール交換に来たよ」というと、動く方の左手を差し出してきたので妻の動かない右手を持ち上げるとその手を軽く兄は握った。妻は目を閉じたままだった。
兄は痩せこけてもはや透き通るようであったが、凛とした表情でベッドにいた。その姿は、写真で見ていた合掌する祖父とそっくりだった。
これが生前の兄と会った最後となった。

30日に生前の兄の意向により家族だけの通夜をやり、翌7月1日にやはり身内だけの葬儀を終えた。
71歳だった。



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