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無題 [介護と日常]

入院してからまもなく、あり得ない三週間目が近づいてきて、ようやく変化が見えはじめた。
危機的な血圧低下に対して、投入された薬に体が反応が出来ないでいた。それほど体が弱っていたわけで、強い薬を目一杯投与していたものの、このままでは心臓が持たなくなるギリギリのところで、血圧が戻りはじめた。心臓に負担が大きいイノバンという薬の量もやっと減り始めたのだが、今日その薬の投与を終えたと告げられた。血圧はそれでも100前後を維持してくれている。

昨夜病室で子供達と一緒になり、久しぶりに三人で居酒屋に寄った。咳で噎せ、苦しそうな表情に甦ろうとするエネルギーを感じ取った安心からだった。やはり、生命にはエネルギーが宿っている。今まで妻は何度も入院したがそのエネルギーがまったく感じられないのは今回が初めてだった。

医師から危篤が告げられたとき、医師は「むしろ、奥さんのように重篤な下垂体障害を負っておられるのに10年も生存している事実に驚いたのです。今までが本当にギリギリで生きてこられたのだと思います。1月に診させてもらったときの安定が実はそういうことだったということでしょう。私が奥さんのことを覚えているのは、下垂体障害なのに、どうしてこんなに安定しているのかという驚き、そういうことが前提にあったからです」と、言った。私はその時自分の希望を伝えることを断念せざるを得なかった。すでにその時妻は仏様のような顔をしていたのだった。

外は曇っている。まだ外は寒いが、街のあちこちに春がひそんでいるのが見えはじめた。
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無題 [介護と日常]

朝から雪がちらちらと舞っている。寒い。妻は二日前より輸血が始まった。残るは人工呼吸器だけと言われていたので、まだ打つ手があったのかと逆に安心する。体が弱っていると苦しむ元気もなくなるのだと知った。咳はもちろん、発熱すら出来ない。だけど、妻は生きている。おそらく医師の予想を超えて命を繋いでいる。このまま意識は戻らないかもしれないが、3月の末に引っ越す新居に出来れば連れて帰りたいと思っている。
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2012-02-07 [介護と日常]

ずいぶん長いあいだ留守をしてしまいました。

突然ですが、妻は死ぬかもしれません。
いま、死の隣で疲労困憊して喘ぎながら休息しているところです。

二月三日午前六時五十分に、痙攣の発作を起こして病院に入院しました。診断名は「症候性てんかん」。二次性てんかんともいうそうです。
血圧が低下し、肺炎も併発して危篤状態となりました。また、六日に軽い脳梗塞を起こしました。一見はおだやかに眠っているようですが、体の余力が残っていないようなのです。肺炎になっても熱を出して抵抗する元気もないということのようです。

今日七日、救急救命室から脳外科病棟の個室に移りました。出来るだけ時間に制約されずに家族と長くいられるようにという病院側の説明でした。
妻はいままで大きな怪我を何度も乗り越えてきましたが、さすがに今回はあまり元気がありません。てんかんの発作は負担が大きすぎたかもしれません。くも膜下出血後の患者にてんかんの発作がわりあい起きることは最初の手術後の後も聞いていましたが、この時期に起きるとはわかりませんでした。

すこし予兆があったといえばありました。一月十六日、顔がすこしむくんでいるのとときどき誤嚥があり、また夜の独語が多くなりすこし呂律もおかしいのでいま入院している病院の脳外科に(最初の手術をしたところ)久しぶりに行き、脳のCTや、電解質のバランスなど全部を調べてもらいました。この時の血液検査の結果は、驚くべきもので今回も診てくれている医師が「信じられない、外来に来ているどの患者よりもいいくらいだ。下垂体障害の患者のホルモンバランスが投薬もなしに安定するなんてあり得ない」と驚嘆の声を上げたのでした。

気になった誤嚥に関しては、いつも往診してくれる診療所が専門家を派遣してくれて、いろいろテストをしてもらったところ、まったく問題なしで筋肉の量も充分にありまだ若々しいので良く運動するようにとまで言ってくれました。
また、前日には往診があり、妻もにこやかに医師に応対していたのでした。

むろん希望は捨てていません。ただ、ゆるやかに死の方に歩んでいこうとする妻のそばにこれから出来るだけいようと思います。
111029_190637.jpg

昨年の10月24日、子供たちが還暦の祝いだということで昔よく行った伏見区の韓国料理店に招待してくれた時の写真です。これはほんとに久しぶりの外食で、妻もとても喜んでいました。画像は娘の携帯なのであまり良くありませんが、良い表情だと思いました。

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古い写真 4 お終い [介護と日常]

今日は入浴の日だった。寒くなったので10月からシャワーだけではすまなくなり、湯船に入ってもらっている。冬の到来を想起させるこんな日は、妻は湯船で温もりを楽しんでいる。入浴用のリフトを設置するか少し考えたが、トラブルも多く、また手伝いをしてくれるベテランのヘルパーさんも、工夫しながらやってみましょうと力づけられてやってみたら案ずるより産むがやすしで、人工関節を入れる前よりもうんと楽に入浴ができるようになった。
手順はこうだ。更衣室に車椅子に乗ったままで入り着ているものを脱ぐ。つぎに浴室のシャワーチェアに座らせる。洗髪と身体をヘルパーさんが洗ってくれる。下半身を洗うときは私が正面から妻を抱えて立たせ洗い流す。浴槽にはいるときは浴槽に渡したボードにシャワーチェアから移動してヘルパーさんが浴槽の中から妻を立たせる。すぐにボードを抜いて私が後ろ側から湯船に入り支えながら湯船に浸かる。ヘルパーさんは浴槽から出てタオルを洗ったり片付けをする。その間、私の脚と足を利用して浴室の中で滑らないように安定させる。妻は安心してタオルで顔をふいたり肩に湯をかけたりして楽しむ。出るときは私が浴槽で妻を立たせヘルパーさんがボードを渡してそこに座らせる。それからシャワーチェアに座らせ、椅子のまま移動してタオルを敷いた車椅子に座らせる。それから身体をふいてヘルパーさんと協力しながら服を着せる。頭を乾かすのはヘルパーさんがやってくれる。
お風呂から上がった後はリハビリパンツを通常は穿かせる。なぜなら、車椅子に座った状態で着替えがすんでしまうからだ。ところが今日はうっかりリハビリパンツが切れていた。いったん身体をふいて上だけ着替えをすませタオルをしっかりかけて、髪を乾かしてもらいその後ベッドに移動してオムツを着けた。じっと見ていたヘルパーさんから「上手だ!」とほめられて、喜んだ一日であった。

古い写真は今回でお終い。だんだんブログを書く調子がつかめてきた。アルバムにきれいに整理されていた写真であったが、記憶にない写真ばかりを選んだ。とはいえ、この時期のことをなにも覚えていないわけではない。写真に撮られた記憶がないだけだ。ここに写っている父や母を見ながら、重なり合ってひとつの記憶となっている両親像から、断片として取り出された父や母と出会った。鮮やかであると同時にすぐに輪郭が滲みはじめてイメージとしての記憶にとけ込んでいこうとする。
ここに写っている私はまだ目一杯両親からの養分を吸収し、自分が関わっていかなければならない外の世界をまだ夢想だにしていないようだ。と書いて理解した。だから覚えていないのだと。
ネコと.jpg

この猫の記憶はない。だが、幼い頃確かにまどろみの中で自分以外の重さ、意外なほど熱い息と早い呼吸を記憶している。病気で早く死んだのだろうか、それとも何かの事故でいなくなったのだろうか。この机の記憶もない。兄の机だろうか。わずかに電気スタンドの記憶が残っている。赤いガラスがカットされていた。紙をあてるときれいな模様になって光を写した。
母と.jpgこの写真の母はずいぶん印象と違っている。こんなに角張っていなかった。ただよく見ると私の頭の上に顎を乗せているようだ。母に対してこんなに無防備に抱かれていた自分もあったのかとみょうに感慨深い。基本的には甘えんぼだった。そういえば小学生の頃はよく甘えるなと怒られていたことを思い出した(苦笑)。
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古い写真 3 [介護と日常]

母親の記憶は年とともに輪郭が曖昧になってきている。母親らしい愛情は別にして身体の弱い人。厳しくてきつい人。風景に馴染まない人といった印象がある。風景に馴染まないというのは、周り近所で世間話をしていてもいつも異和をまとっていた人だったという意味で馴染めない人だったのだろう。厳しくてきついという印象と、母に対する反抗は対になっている。まったく嫌いではなかった。嫌いではなかったけれども反抗せざるを得ない鬱々とした感情を持ち続けた。母はそんな私にずいぶん心を砕いたのではないだろうか。

見つかった写真を見て驚いたのは、母にもこんなはつらつとしたときがあったのかということだった。私もこの頃はまだ喘息もない元気な少年だったらしい。母が頭にかぶっているのは私がよくかぶせてもらっていた新聞か何かでつくった兜だそうだ。
この時の母は今の私よりも20歳以上も若いわけだが、そうとは見えない。やはり母である人にしか見えない。この辺りが不思議といえば不思議である。
野球少年.jpg

昭和29年か30年頃であろう。

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夏を越して [介護と日常]

大腿骨骨折の手術、リハビリ病院への転院、退院以降のこれまでの経過をざっくりと書いておく。退院したのは5月2日だった。退院後すぐにケアマネさんと相談し、月二回の往診の復活、それから上の入れ歯の不具合を治すために訪問歯科医を紹介してもらって治療をした。上の入れ歯を止めていた一本の歯がほとんど死んでいるということで抜歯と言われたが、退院後まだ時間が経っていないこと、体力が戻ってないことなどから抜歯以外の方法を求めた。医師は歯を歯ぐきから切断して入れ歯を作りかえることにしてくれた。これは良かった。抜歯をすると出血が伴う。妻の体力では回復に時間がかかったと思う。入れ歯はすぐに出来てきて食べる意欲を取り戻してくれた。その後口腔ケアに歯科衛生士さんに毎週来てもらっている。

5月下旬に往診を再開してくれた医師は、手術した方の足の膝と麻痺している側の足の拘縮が進んでいることを気にかけ、リハビリを継続した方がよいと判断した。自分が属している病院にすぐ電話をしてくれ、リハビリのやり直しをすることになった。これはありがたかった。妻も嫌がるそぶりを見せることなく、再度入院することをじゅうぶんに理解していたと思う。転落事故の時リハビリで入院した病院だった。
6月の中旬、主治医から話があった。拘縮の回復は極めて難しいこと。ただリハビリを本人も嫌がってはいないが、現状維持を目標に長期入院体制をとるかどうか。病院としては受け容れる準備はある。拘縮の原因は、回復期病院でのリハビリが進まなかったことがいちばんの原因であること。その原因となったのは、膀胱炎の投薬に原因があったかもしれないという。感染症のための薬が、認知症患者にあまり良くない傾向があってそれで自分たちもずいぶん痛い目に遭ってきたという。前の病院からの薬を全部検討して、結果的にすべての投薬を止めているという。妻の表情はずいぶん豊かになっていて、少ないながらも自分から話すことも多くなっていた。とりあえず、医師の話を妻に聞かせた。元に戻るのは難しいかもしれないけど、今以上悪くなることはないらしい。そのために長く入院する必要があるらしい。このまま入院するか、家に帰るか。妻は多分理解していて一瞬考え込んだが「やっぱり帰りたい」と言ったので、その足で主治医のところに行き家に連れて帰ると告げた。医師から、家での屈伸とかストレッチ方法を教えてもらい、一日に朝・夕二回はその運動をすることと言われた。それをやっていれば極端に拘縮が進むことはないとも言われた。結局入院期間は4週間だった。

夏の対策は万全を期した。節電の呼びかけはあったものの冷房は24時間態勢をとった。脱水も熱中症も、電解質のバランスも崩すことなく夏を越した。一度だけトラブルがあった。ある日オムツを替えると出血の後があった。オムツを替えた後、娘が帰ってくるのを待って見てもらうことにした。するとさらに明らかにかなりの量の出血があった。すぐに救急車を呼び病院に連れて行った。膀胱炎だった。写真を見せてもらうと、炎症部分が剥がれ落ちるように出血したとのこと。だが、心配することはなく出血が止まれば治るということだった。二三日出血が続いたが、治まった。この出血騒ぎにはそうとう動揺させられたが、妻にとっては抱えていた病から離脱するきっかけとなった。

今年もようやく夏を越した。やれやれと思う。順調だった。食事も自分で上手に箸を使って食べられるようになった。ときにはっきりとした口調で話す時もあり、驚かされることもある。朝ベッドから起こすと決まって嬉しそうに笑う。夜寝ないで車椅子に座るとすぐに寝始めるのは玉にきずだが。
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今年の夏の記憶に。障子が同じ高さで破れているのは車椅子のせい。キュウリがずいぶんたくさん収穫できた。
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出血の影響で少し元気がなかった今年の誕生日。で、ケーキを今年はチーズケーキにしてみたらこれがおいしくてビックリ。自分の誕生日にもこのケーキにしてもらった(^^ゞ
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古い写真 2 [介護と日常]

スクーターの前に乗せられて風を切りながら走った記憶はある。その記憶は、あまり快適な感覚とは結びついてない。ほとんどが病院に連れて行かれるときだったからだ。いつからそうなったのかわからないが、喘息だった。発作が起きると夜昼問わず病院に行く。お尻にペニシリンを打たれる。すると決まって猛烈な吐き気に襲われて病院の外の溝に戻す。そしてぐったりしたままスクーターのハンドルにしがみつく。これが父とスクーターにまつわる記憶のほとんどである。だから、オートバイに興味を持つことはずっとなかった。
中学生になって喘息から解放された頃、父はスクーターからカブに乗り換えていた。台風が近づく前の断続的な雨や風が吹く深夜、こっそりカブを出して何度か海岸線を走った。オートバイに乗ってみたい欲求よりも、むしろ背徳への傾きだった。

高校生の頃父が出張の時、通学バスに乗り遅れた。学校に遅れないための唯一の方法はカブで学校まで行くことだった。どうしてそこまで遅れないようにしようと考えたのか今ではわからない。隣町を過ぎた頃、後ろから追いかけてくるバイクがバックミラーに見えた。近づいてくるとアクセルを開け引き離したりしつつ快適なツーリングを続けた。20キロ先の学校の正門前でカブから下りたとき、後ろからずっとついてきていたバイクが前に止まった。警官だった。私はその場で捕まり学校を停学になった。まったく馬鹿げた思い出である。父は呆れて何も言わなかった。その頃は入学時に寮に入っていたが事件を起こして退寮させられていた。私は学年最初の落ちこぼれであり、すでにいっぱしの不良になっていたのだった。

父と.jpg

写真は昭和27か8年。二歳頃だろうか。写真を撮られるのは嫌いだった。太陽がまぶしすぎるのだ。外で撮られた写真のほとんどはいつもこうやって眉間にしわをよせている。露骨に泣きそうな顔もある。とにかく写真は嫌いだった。父が乗っていたスクーターの機種がわからない。父は三十七、八歳ぐらい。今の自分よりはるかに若い父の姿を見てなにか突き上げてくるものがある。涙腺が弛むとかそういう類の感情ではない、なにかがである。うまく言えない。

今回はよけいなことを書き加えないでこのままアップすることにする。妻の様子は次回にまとめてということで。元気です。
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べつに感傷的になっているわけではありませんー古い写真1 [介護と日常]

祖母、父、叔父が息を引き取った私の実家とも言える神戸市にあった小さな家を処分して更地にして去年地主に返した。という話は書いたかもしれない。こぢんまりとしていたが庭もあり、小さな家にふさわしい小さな門がある家だった。戦前に土地を借りて家を建てたものだった。すぐ近所に賑やかな市場もあり、妻が元気だったらそちらに引っ越しても良いと思える環境だったが、古い上に震災の影響もありほぼ全面的に手を入れなくてはならなかった。
初めて神戸に行ったのは小学校に上がる前だったかもしれないが記憶に残っているのは、小学校五年生の頃の夏休みだったと思う。父に連れられて甲浦(かんのうら)からフェリーに乗り一晩かけて神戸にいった。神戸の街のきらびやかさは一種の衝撃だった。それまで一番遠くまでいったのは、小学生の頃に通っていたそろばんとお習字の塾から南国にあった手結(てい)の海水浴場に連れられて行ったのがいちばんの遠出だった。
私の町から安芸市に行くまで、県道は舗装もされていないし、コンクリートの建物がなかった。安芸市にはいると「デパート前」というバス停があり、「デパート」という何とも言えぬ開明的な響きに一緒に行った連中とバスの中で歓声を上げたものだった。奈半利から見て安芸市はまさに開けた「お町」であった。それでも今から思うと安芸市のデパートはくすぼけた緑色の貧相な三階建ての建物だったし、それ以外にビルのような建物はなかった。安芸市を抜けると自分の町と同じような家並みがポツポツある程度だったのだ。神戸市の街並みの光景、その衝撃足るや察していただきたい。
しかし、神戸での最大の衝撃は「鯨カツ」に尽きる。鯨は臭いがあって嫌いだった。甘辛く炊いても、焼いても煮ても、どうにも食べたくない食べもののひとつだった。遊んでくれた従兄弟が市場に連れて行ってくれ、揚げ物やさんで何気に鯨カツを買って渡してくれた。新聞紙に包まれた熱々の鯨カツに店頭に置いてあるソースをかけて食べたときのあのおいしさは忘れられない。鯨と聞いてさらに驚いた。それから神戸の家にいる間、店屋物を嫌う祖母の目を盗んでは小遣いを握りしめて市場にいき鯨カツを買って食べた。夕飯を食べられなくなって怖い祖母によく睨まれた。
叔父が亡くなった後、建物の相続をした私は友人の建築家に調べてもらったら、改築に最低でも800万円で本格的に直すと1300万円以上はかかると言われた。友人は直して貸すという可能性も含めて親切にもその地域の賃貸相場を調べてくれ、改築資金を借りた場合の利息計算とか月々の返済、家賃収入などエクセルでシミュレーションを出してくれた。また、以前大阪の税務署に勤めていて不動産に詳しい友人も加わって検討した結果手をつけないのが一番良いということになった。
だが、ずっと放置して置くわけにもいかない。戦前からの借地だけに地代は安かったがそれでも毎月9000円を払い続けなくてはならない。家が荒れると近隣から苦情も出てくる。更地にして地主に返すとなると300万円の費用がかかるという。もと税務所勤めの友人が、建物の権利を放棄して、代わりに更地にする費用を地主負担にしてもらう交渉を時間をかけてやれとアドバイスしてくれた。叔父が亡くなってから10年めにようやく地主との交渉がなったわけだ。
家を明け渡す前、最後の片づけに行った。おそらく父がもっていたのだろう古い写真が何点か出てきた。私の記憶にない写真だった。
見つけた写真を小出しにしてブログの長い空白を埋めていこうという魂胆である。
赤ちゃん.jpg
※(ミッチーさんのご指摘により曖昧な書き方を訂正します)お座りが出来るようになった頃の写真らしい。


☆10月5日で、妻が倒れてから10年目を迎えました。あっという間でした。
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満六十歳になりました [介護と日常]

今日で還暦を迎えた。自分でも説明できない充足感があることに驚いている。父親の年を超えた事実がひとつの大きな要素でもある。父は満60歳になるほんとの直前にこの世を去った。自分がここまで生きられるとは思わなかったわけではない。ただ、漫然と年を重ねることに対する人並みの抵抗感はあったが、自分がこの十年を生きてきた間にもっとも変節を強いられたものがこの抵抗感であった。転向といってよいかもしれない。そして、この転向とよべるかもしれない変化をもたらしたものは疑いもなく妻との生活である。

なにかに急かされるように生き急ぐことが無意味なことであったとは思わない。だがそのことに過度な価値を見出すことはない。感傷もない。すこしだけ理解できたこともある。それは歴史的な存在として私(たち)は生きているということだ。ただあるがままの自然に埋没した自然そのものの個人として生きているわけではない。自然もまた歴史的な自然として対象化された自然としてある。だから、自然界の自然のままの生死に依拠する死生観に異議を申し立てる根拠はここにある。60年間生きてきてその程度かと言われたら、そうだとしか言いようがない。復路は回帰線を避けながら歴史的な自然の順序にしたがえるように、社会の順序から徐々にはぐれながら無数の無名のひとりとしてやがて歩けなくなるまで歩を進めていくだけである。

妻が歩けなくってからずっと懸案だった引っ越しがようやくかないそうだ。まだ契約をしていないからどう転ぶかわからないが、ほぼ決まるだろう。息子が仕事をしている工房の路地に並ぶ崩れ落ちそうな長屋がある。ほんとうに崩れ落ちそうで、壁の隙間から外が見えるようなところだが大家の方から借りて欲しいと持ちかけられた。場所的には願ったりかなったりのところだ。一軒ではあまりに狭すぎて無理だが二軒を一軒として借りられることになった。工房は目と鼻の先だし、なによりこの界隈にとどまれることが大きい。改装工事があるので早くて来年の四月だろうと思うが問題がひとつ片づいた。気が向けば車椅子を押しながら買い物にも散歩にも行ける環境が手に入る。

ブログに復帰すると書いたのに過去最長の空白を招いた。その間ツイッタやG+などでネットに触れてきた。満たされる欲望もあれば砂をかむような空虚にも向き合ってきた。誰がなにを言うのか、なにを欲しているのかあらかじめわかっていたなどとは言えない。ただ、繰り返される言動のうねりの中で、なにか大きな変動が起きようとしている気がする。だが、哲学者小泉義之がいう「恐怖の下で平等で対等になった人々」たちが呼びかける共同性への拒否権だけは表明しておきたい。恐怖や悲惨、そして安心・安全で未来を担保することも過去を留保することもしない。「今日」の問題に向き合うのみだ。
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退院しました [介護と日常]

今日5月1日、退院した。
家に帰ると妻は微笑みながらベッドに横になるとそのまま眠りについた。傾斜していた踏み台が元に戻ったかのような充足感を感じて肩の力が抜けた。
いずれすぐにどちらかの方向に向けて傾くであろうが、復元力があるかぎりその場所に立っていられればよい。と、思えた。

入院していた妻が言葉と表情を失ったのは三週間を過ぎた頃だった。病室に行っても表情を変えない。手には痛々しい点滴の後が増えていった。
低ナトリウム血症だった。心配した理学療法士や作業療法士がなんどか部屋にやってきた。ほとんど伝達ができずにリハビリが進まないという。
4月15日の相談会のときに月末に退院したい意向を伝えたのは、妻の状態を把握してもらえればまた意欲的にリハビリに復帰できて少しは成果が上がるのではないかと思ったのだが、むしろ悪化する一方だった。食事の塩分は6gと指定されており、さらに投薬として塩化ナトリウムが加えられた。持ち込み禁止といわれて食べものを持ち込むことはできなかったがノリの佃煮やふりかけを持ってくるようにいわれた。

4月25日月曜日。ようやく顔に精気が戻った。だが表情もなく一向に言葉を発しない。連れて帰れる状態ではなかった。食事は相談会のときにミキサー食をやめて普通食を食べさせてくれるように頼んだがおかゆに変わっただけだった。入れ歯は入れてくれなかった。
26日夕食後病院の玄関にハナミズキが咲いているので見に行った。気分転換になるかと思ったからだ。この病院は病院の外に出るのは禁止だった。最初の頃詰め所に散歩の許可をもらいに行くと駄目だと言われた。前のリハビリ病院はどんどん連れて行ってくれといわれたのに。だから、無視して病院の外に出た。暗くなったので玄関脇にある談話スペースでコーヒーを飲みながらずっと話しかけているとかすかに口を動かしているのに気がついた。口元に耳を近づけるとやっと聞こえるような声で話をしようとしているのだった。
「朝、琵琶湖に行ってきた」
それはよかった。今日は気持ちよかったんじゃない?
「気持ちよかったよ」
なにで行ったの?
「タクシーで」
そりゃ贅沢やないか。妻は少ししまったというような顔をしてかすかに笑った。
今何がしたい?
「歌が歌いたい」
これはやはり退院させなければと思った。

4月27日にやはり当初の予定通り退院させるというと少しの準備があるというので今日の退院になったわけだ。ひとりだけ見送ってくれた看護婦さんに妻は瞬間芸の笑顔を見せ、病院を後にした。
家についてオムツを見ると尿取りパッドを二枚重ねてあった。尾てい骨の上部に褥瘡があった。薬として塩化ナトリウム(塩)が19日分袋に入っていた。まあこの病院では妻のような認知症患者に対するノウハウがなかったのだろう。自分で入れ歯が入れられなければつけてはもらえない。寝たきりにならないために厳しく管理され、車椅子に前のめりになって倒れそうになっていてもベッドには横にさせてもらえない。スパルタである。妻はきっと抵抗することに決めた。だから、話さない。相手の言うことも聞かない。置かれた状態を耐える。空想の中で自由に琵琶湖やかつて自分が行ったことがあるところを追いかけていたのだろう。と、思った。

退院祝いは自家製ちらし寿司に自家製にぎり寿司のお寿司オンパレード。それにお刺身。夕方ベッドから食堂に移動するとにこやかに自分でコップのビールを口に運び一口だけ飲んで、それからたくさん食べた。まだ大きな声は出せないが耳を近づけなくても聞こえる声で子供達と話をした。そして10時過ぎにベッドに行き、横になった途端に寝息を立て始めた。
これからまた、いつもの日々が始まる。いずれどちらも朽ち果てる。そのためにまたいつもの日々が始まる。何度も傾くだろうが、傾きを感じられる踏み台に立っていられればそれでよい。
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※約二ヶ月半ぶりに一家団らんの夕食
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桜が終わる。 [介護と日常]

桜の花が咲き、そしてどんどん散っていく。いつもと変わりない営みがやはり毎年初めて出会うかのように繰り返されていく。千年に一度の大地震もその変わりない営みのひとつに過ぎないとわかっていても世界を容易に変えてしまう。こういうときだからこそ、私は「日本は」というあらゆる議論から耳を塞いでいる。望むのはただひとつ、被災された方々のひとりひとりの要望が最大限満たされることだ。すでに町や市の行政単位でも被災した住民と深い亀裂が覗いていることだろうことは想像に難くない。ましてや県、国となるとほとんど個々の要望など消し飛んでしまう。絶望的な願いだが、この関係を逆転して被災した住民、地域住民に従属した順序で村や町、市や県、そして国の行政においてあらゆる対策が講じられることを願う。

原発事故については、とにかく早く危機的な事態が収拾されることを望んでいる。そして現場で全力を挙げて対策をしている人たちに休息が訪れてくれることを心から望んで止まない。その一方で少し唖然としたことがある。それは炉心溶融により水素爆発を起こした原子炉に自衛隊、消防庁、警察庁が放水車を集めて決死隊のように原子炉に放水している報に接したときである。
私は正直言うと、こうした事態に備えて電力会社もしくは国に(それは自衛隊でも消防庁でもよいのだが)原子炉専門の事故対応部隊が当然存在しているものと信じて疑っていなかった。原子炉の事故は国内において今回が初めてではなく、かつ深刻な事故はスリーマイルやチェルノブイリで経験しており過去ニュースやドキュメントなどでそういう部隊が編成されたり、活動しているのを見ていたからで、日本でもそれが当たり前にあるものと思っていたのに、そういう備えがまったく存在していなかったことに唖然としたのだ。そうした備えがあったとしても現在までの事態の推移を止められなかったかもしれない。そうだとしたら原発は運用されるべきではない。原子力発電が駄目という議論以前にこうした事業の推進、建設、運営の問題が日本社会の構造的な問題として鋭く露出している。この裂け目をヒステリックな恐怖や政治的なプロパガンダで塞ぐのではなくもっともっと抉られなければいけない。内閣を罵倒したり、人生の達観を披瀝することでこの問題を覆い隠そうとしたり卑小化してはならないということは私でもわかる。安全であれば原発を拒否しないという非政治的な人々の心情を包括した、政党や大衆運動家が先導する平和運動を超える平和運動、反核・反原発運動を超える反原発運動の可能性を信じたい。
また、もうひとつの感想として原子炉建屋への放水を実行した部隊の隊長のインタビューをテレビで見た。隊長はまず第一に隊員の安全が優先だったと言い切り、危険で困難な仕事に隊員を就かせたことに対しその家族に謝った。不況が続くなか派遣切りや自殺者の問題、高齢者問題と抜け道が見えない閉塞した社会状況の中で、テレビやネットで「日本」というかけ声がうねりとなっている中で、この隊長のインタビューはテレビで煽るだけの馬鹿コメンテーターや、政治家、経営者とはまったく違う健全さを痛ましさとともに示してくれた。捨てたものではないと思った。

妻がリハビリ病院に転院して三週間近くが経った。今度の病院はリハビリ部門と病棟との連携があまりよくないように見える。リハビリの成果を聞いて喜び、翌日には病室で体調を崩す姿を見てがっかりする。そんな三週間だった。これが普通の病院なのかもしれない。一年前に入院していた病院はすこし特別だったかもしれないと思うようになった。15日に担当者会議があったが予定の二ヶ月から三ヶ月という期間を待たずに今月末に退院させたい旨を伝え消極的ながら承諾を得た。28日に退院する予定である。

次に自分のことだが半年ぶりに検査した甲状腺ホルモンの数値が悪くなっていたことがわかり、チラージンという薬を増量した。同時に別の病院で処方されていた抗うつ剤が合わないということで変更された。倍以上に距離が伸びた妻の病院に臆せず自転車で通い続けた。結石による潜血反応がなくなり、石は排出されたのではないかということになった。結果、なんだか体は元気だ。地震以来読むのを中断した長編小説[断崖・ゴンチャロフ/岩波文庫全五巻]を再び開く勇気はまだ無い。最初から読み直す元気もまだ無い。それでも良いと思っている。

※ちょうどログインするためにメールをチェックしたらブログレポートが送られてきていた。今月でブログ開設以来6年経ったと教えてくれた。
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眠りは目覚めの方途を彷徨っている [介護と日常]

東北地方太平洋沖地震はマグニチュード9.0というとてつもない巨大地震であったと伝えられた。地震のスケールはそのまま直接私たちに及ぼす被害の大きさに直結しているという現実をまざまざと見せつけている。比喩ではなく比例だ。

詩人は「希望が験されている」と書き、若い作家は「この圧倒的な善意といつくしみの奔流の中で沈黙を続けよ。」と発言し、呼吸器が弱いらしい心理学者は『「圧倒的な善意と慈しみの奔流の中で沈黙」するな。』とつぶやいた。私に語るべき言葉があるか。無い。無い言葉を抱えてじっとテレビ画面を凝視している。

東京のあるサラリーマンは電車が止まった通勤途上でのインタビューに「ぜんぜん苦労ではない。これは第二の敗戦です。きっと復興します」と答え雑踏の中に消えていった。彼は「敗戦」という言葉の中に何を見ていたのだろうか。これ以上ない堅固な防潮堤を津波が来る10分前に閉め終わった職員がカメラに向かってさわやかな笑顔で「作業終了です」という姿がオーバーラップする。

死者と不明者の数が積算されようとした瞬間に歴史に貼り付けられる。だが現実は圧倒的にその枠からあふれ出て抗う。あふれるのは一人の生であり死なのだ。

電気が止められている家がある。ガスも水道も止まっているその家の住人は厳しすぎる寒さに耐えかねて家の中でゴミを燃やし暖をとろうとしてぼや騒ぎを起こした。そこに住人がいることを初めて知った。なんどか見かけた男だった。凍てつく道を靴下もなく歩き、ひとときの温もりを得るためにコンビニに行く。臭気に耐えかねた客の訴えで彼は追いやられる。彼は昨年の秋からずっとまるで被災者のような生活を生き抜いている。何度顔を合わせても彼の用心深い視線が弛むことはない。年が明けたある日、寒さが弛み春を感じる朝、彼はいつも閉じている玄関の戸を開け、明け方の空の明かりを頼りに土間に座り込んで分厚い法律の専門書を見ながら一心にノートをとっていた。ペンを持つ手は真っ黒だった。

妻が入院して手術を受けた。大腿骨頸部骨折。動く方の足だった。血小板が少ないまま、万全を期して輸血をしながら人工関節に置き換えた。痛みを訴えたのは2月17日夜だった。テレビを見ていた。9時も過ぎたのでトイレに行こうかと誘った。車椅子から立ち上がろうとしたとき突然痛みを訴えた。じっとしていると痛みはないという。いったんベッドに移動し、横になるとスヤスヤ寝始めた。翌朝ベッドから起きて車椅子に移動するときやはり痛むらしい。その日はデイケアの日だった。朝食もすませ迎えを待っていたが気になって迎えの人に相談した。それはデイケアが診療所内にあるからだった。しかしデイケアの送迎で診察目的の移送は出来ないと言われた。特別痛がる風もなかったが、仕方がないので救急車を呼んだ。近所の知り合いが驚いて様子を見に来たが妻は担架で階段を下ろされながら笑顔でピースサインを出して救急車に乗り込んだ。結果は重傷だった。思い当たることはある。ずっと前からベッドに移動して横になって足を乗せるときにいつも痛がっていた。また、17日は入浴の日だったが着ているものを脱ぐときに車椅子から転倒した。この転倒は不意打ちだった。だが、たいしたこともなく痛がりもせずにそのまま入浴を済ませた。風呂の中で妻は気持ちよさそうに湯船に浸かっていた。そして夕食も済み、前述したトイレのときに戻る。手術は無事に終わり、順調ならすでにリハビリ病院に転院ということになるはずだったが、地震が起きて以降体調を崩した。まず低ナトリウムになりそれが回復したら高ナトリウムとなった。体調が回復するまで転院は延期となり今に至っている。(30日に転院が決まった)

昨年の11月頃より、ずっと安定していた糖尿病の数値が上がりはじめた。血糖値はそうでもないがHbA1cが6.1から徐々に上がりはじめ2月には7.3まで上昇した。理由がわからない。医師はここで診てもらった方がよいと紹介状を書いてよこした。精神化・心療内科の病院だった。「鬱傾向」という診断で薬を飲み始めた。

3月16日。病院の待合室で診断を待っているとき、下腹(したばら)に違和感を感じ始め徐々に鈍い痛みに変わりはじめた。座っていても立っても落ち着かずだんだんひどくなり、冷や汗が出始めた。痛いという声を出すタイミングを逸したままベンチで意識を失った。気がつくとベッドに寝かされていた。気づいたときには痛みは引いていたが、尿検査の結果顕著な潜血反応が見られたので「結石」の疑いが強いということだった。超音波の検査で石は見つからなかったが後日CT検査をすることになった。CTの画像では黒く写る腹腔の空洞の中にちょうど腎臓から尿路に近いところに小さな白い点がまるで遊星のようにぽつんと写っていた。診断後、何日か痛みを覚えたがその後まったく消えた。石が排出されたのかまだ留まっているのかわからない。そのかわり、耐え難い睡魔に襲われるようになった。目を閉じると泥沼に吸い込まれるような眠り。仮死を纏うことで救われようとする自分の生があるのではないか。そんなことを考えざるを得ない日々を送っている。

ブログに復帰します。
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よいお年を [介護と日常]

京都は朝から雪が降り始め、もう一面真っ白な雪景色になっています。
昨年の大晦日も寒い日でした。粉雪が舞っていました。
夜看護婦さんに促されて病院から帰ったことを思い出します。
妻が子供に笑顔で応えた日でもありました。
なんだかあっという間の一年でした。
ふり返ってみると自分が処理しきれない一年間でした。
やり過ごすことも引き受けることも、拒否も肯定もできない自分にただ向き合っているだけで過ぎていく日々でした。
ひとつ発見したことがあります。
そんな時でも、溢れる言葉に満たされているということでした。
日常の言葉であり、堅苦しい言葉であり、嘆きの言葉であり、喜び、冗談、刺すような言葉、あらゆる言葉に満たされながら自分の下降をとどめることはできませんでした。
もう一人の私がどこかでなにかの身振りを振る舞っているのではなく、それが私そのものでした。

ある日の深夜のことです。
妻が目覚めているのではないかという気配に眠りから覚めました。
はたして妻は目を見開いて闇の向こうを凝視していました。
声をかけると身じろぎもせずにこうつぶやいたのです。「くも膜下出血…私のくも膜下出血どうなった?」
瞬間、私は感電したような衝撃を受けました。私や子供達が規定してきた時間以外の時間を妻は確実にたしかに繋いでいたのです。

妻はよく「ありがとう」というようになりました。
私がときに「礼や感謝が欲しいわけじゃない。そんなのは余計だし邪魔だ」とこたえると、妻はクスッと笑います。
なんとなく二人はうまくいっているような気がします。

新しい年までもう12時間を切りました。私は今しばらくこういう時間が必要なようです。
でもそれほど遠くない時期にきっと会いにいきます。

みなさん、よいお年を!
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近況 [介護と日常]

気がつけば一月以上更新をしないばかりか、訪問もしていなかった。ご心配頂いた方々にはお礼とともにお詫びします。
一年に一回くらいこういう時期がやってくる。なにもかもが沈殿していくような気分を味わう。世の中が元気になると特にそういう気分に拍車がかかる傾向があるようだ。そんな私の気分とは関係なく、妻の格段に増えた言葉と豊になった感情表現はずぶずぶと沈んでいこうとする私に小枝をさしのべてくれる。
あっという間に一年が過ぎようとしている。昨年末からこの一年は厳しい一年だった。胸囲が2センチ弱大きくなった。秋口にTシャツがちょっと窮屈になったので太ったのかと思ったら、そうではなく大きくなっていたのだった。それに気づいた頃、左肘が壊れた。握っても捻っても力を入れても曲げ伸ばししても敏感に反応して痛みを告げる。病院で診てもらったが回復の兆しもない。いわゆるテニス肘というらしく、骨に突起ができて筋肉を刺激しているのだそうだ。生活の変化に適応できたところとできないところが共存しているというわけだ。
妻は9月からデイケアを週二回に増やした。以前のように送り出すのに一苦労というようなことはなくなった。いろんな拘りがなくなってすんなり出かけてくれる。それから二日に一回の入浴のうち、週二回ヘルパーさんが手伝いに来てくれている。最初はおそるおそるの入浴だったが、今では一人でもすんなりとまではいかないが、妻も私も慣れてきた。暑い間はシャワーだけだったが、10月からは浴室リフトを設置して浴槽に浸かれるようにもなった。
入浴介助のサービスは私が入浴させることが前提で、約一時間ヘルパーさんが来てくれる。それでも体を洗ったり、シャンプーをしてくれるのは全部ヘルパーさんでほんとうに助かっている。脱衣所から浴室への段差越え、下半身を洗う時の立位保持の時、浴槽に入るとき、出るときに浴室に入り手伝ってもらう。リフト操作は私の役目。ヘルパーさんにはとても良くしてもらっている。
デイケアの送迎も、二人がかりで階段を下ろしたり上げてくれる。出かける時間が近づき「さあ、あんたのお気に入りの若い子がそろそろ来るよ」と声をかけると妻はニヤリと笑って階段の踊り場にて迎えを待つ。車に乗り出発するときには行ってきますと手を振る。デイケアに出かけた後の時間は自分の時間で、最近はその時間ほとんどぐっすり寝ている。これでずいぶん体が楽になる。やはり普段は睡眠不足が深刻で、デイケアは私の貴重な休息(睡眠?)時間となっている。
食欲が戻り、退院時はガリガリに痩せていたが、だんだんふくよかな以前の体型に近づきつつある。嬉しい反面、左肘がべそをかきそうになる。

とりあえず、大ざっぱな近況報告です。元気でやってます。
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小さな紫の花 [介護と日常]

野放図に枝を伸ばす正体不明の鉢があってとりあえず今まで、つまり妻が倒れてからまる7年、枯らさない程度に水をやってきた。夏になると容赦なく枝を落としてきたが、いったいこの鉢はなんのために置いてあるのかずっと謎だった。今年の梅雨明けの頃、ほとんど枝を落としたのだがなんとなく可哀想になって陽が当たる場所に移してナスやキュウリのついでに水をやるようにした。けなげにもその木は細い枝を少々行儀悪く四方に伸ばしはじめたが切らずにそのまま放置しておいた。
今朝のことである。空が少し明るくなり始めた頃、ベランダに出て洗濯物を干しているとき思わず「あっ!」と声が出た。無用な植物だと思っていたその枝先に小さくて可憐な紫の花をつけていたのだった。
私は7年もその声を聞こうともしていなかったのだ。
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初歩的な問題として [介護と日常]

今年の夏は凶暴だ。さすがに洗濯物がよく乾くなぞと喜んでばかりはいられない。下手をするとこちらものみ込まれそうだ。
一週間24時間連続の点滴が終わった妻だが、一気に回復したわけではない。やっぱり調子が悪い。元気がないし、朝には熱が上がる。それでも、デイケアと往診してもらっている診療所が連動しているので週一回のデイケアには復帰した。だが一週間の安静で体力ががた落ちとなり、階段の昇降がますます困難になってきた。今日帰宅してきたとき、階段はヘルパーさん二人が抱えて上がってくれた。当然、私も抱えるつもりだったが「まかせてください!」と言われてお願いしたが、二人のヘルパーさん最後には「ウグァ!」と声が出て思わず手を出しかけたがキリッとした顔で拒否された。細腕なのにすごいけど、無理すると腰を痛めてしまうよ。妻は何ともいえない情けなさと不安が混じったような顔をしながら階段の上にいる私の方を見ていた。ま、一度脱水になるとすぐに回復するような年ではないということもわかった。送迎の大変さを思うと気が引けるが逆に来月から週二回の通所の提案をデイケアの主任から受けてお願いすることにした。どうしても家に閉じこもらざるを得ない状況を心配してくれている。こういう介入には感謝したい。
床ずれの心配はベッドのマット交換、車椅子用のクッション導入でどうやら回避できたようだ(今のところ)。新たなレンタル品を契約すると、担当者会議が必要だということで、退院月から数えて三回目の担当者会議が開かれた。ケアマネさんをはさんでケアマネさんではない現場サイドからのいろんな提案をしていただけたことがうれしい。

満年齢が65歳を迎えたことと、身障1級の手帳が交付されたことで今までとは天国と地獄ほどの制度的な補助が受けられるようになった。
私が仕事をしていない、つまり市民税非課税世帯であることが交付の条件をすべて満たしているというわけである。身障1級の手帳を受け取りにいったとき、医療費全額控除となる「福祉医療費受給者証」を渡された。続いて市バス・地下鉄などの公共交通機関の全額免除か、タクシー初乗り区間料金免除かを選択できるというのでタクシーチケットを選んだ。仮に市バスや地下鉄を選ぶと介助者も無料となる。その他、車にかかる税金や高速道路料金などの減免がある。

続いて、ヘルパーさんから教えてもらって申請したのが介護用品の現物支給だ。これは要介護4以上の在宅介護で、市民税非課税世帯もしくは生活保護を受けている家族が受給資格要件で、これもすんなり審査を通過した。窓口で綴りになっているクーポン券を年間先渡しでまとめて渡してくれる。指定業者のカタログに載っている介護用品を電話で注文すると、自宅まで配達してくれる。さらに、申込が必要だが有料のゴミ袋を50枚支給してくれた。

※これにはちょっとした後日談がある。ヘルパーさんが「え?ケアマネさんから全然聞いてませんか?」というから全然聞いてないと答えた。するとすぐにケアマネさんが来て、ようするにその時ちょうど介護認定更新審査がかかっていたのだが、要介護4のままになるか3に下がるかのボーダーライン上にあるので伝えられなかったと言い訳した。これには私もちょっと焦った。要介護3になると返さなければならないわけですぐに窓口に問い合わせをした。答は認定審査中は前年度の認定が適用されるので、もし要介護度が下がった時点でクーポン券やタクシーチケットを返していただければよいというので(つまり支給決定日に遡っての返還はないということ)、胸をなで下ろした。 認定基準について少しだけ触れると、それはとても不思議というか理不尽だと思った。日常生活においては介助すべきことがほぼ全域にわたるようになっているのに、逆に介護度が下がる場合があるとはどういうことなのだろう。ケアマネさんの説明では、同居家族がいて公的サービスの度合いが減る場合はそうなることがあるという。しかし、この説明はおかしいと思う。だれかが公的サービスの度合いを判断して減らしているわけであって、減らされている方の負担は上がる。つまり、プラマイ0の基準を状況判断としてどちらに振るかだけの極めて恣意的な判断が優先されるということになる。その判断の合理的な背景は説明を求めると、きっとそれなりにあるだろうが、制度の原則・認定の厳密な基準は、「ぶっちゃけて言えば、そういうものはない」ということを専門家が言っているに等しい。やはり、要介護者の状態そのものが判断基準になるべきだと思う。 またこんなこともあった。妻が点滴を受けている間、訪問看護センターから訪問看護を受けていたが、ケアマネさんが「これ、介護保険のサービスを使いますか」と言ってきた。なんのことかと問うと、ようするに介護保険を使うと費用負担が発生する。これなどは、どういう真意でそういうことを言ってくるのかよくわからない。伝えることには意味があるのかもしれないが、緊急の事態で看てもらっているときにわざわざ費用負担が発生することを言ってくる意味があるのかどうか。むしろケアマネさんからみて、今後の介護の状況から定期的な訪問看護による体調管理が必要と認められるならばそれを提案してくれれば良いだけではないか。これは、さらに医療を取りあげるということを暗に示しているのだろうか。謎だ。医療制度や福祉、介護保険に関することをきちんと調べていないのであまり突っ込んだことは書けないが、この辺りのことを自分なりにまとめておく必要を感じている。ただ、福祉全般と社会制度との関連、法や医療、精神医療の問題も関わってくるので、ここまで範囲が広がるとほとんどお手上げでまとめるといっても自分をあてには出来ないのがくやしい。ー

さらにある。身障一級の場合、在宅介護には特別障害者手当というものがあって申請して審査に通ると月額にして26440円の手当が出るというのだ。これも窓口で申請しておいたら、すんなり認定された。
整理してみると、65歳以上、要介護4以上、身障手帳1級、在宅介護、市民税非課税世帯もしくは生活保護受給世帯では、

1.医療費全額免除(ただし、介護保険サービス利用料・文書料・入院時の差額ベッド代・食 費負担、往診などの実費は除く)→身障1級
2.特別障害者手当・月額26440円(京都市の場合)→身障1級(市民税非課税もしくは生活 保護受給世帯)
3.NHK受診料免除→身障1級(市民税非課税もしくは生活保護受給世帯)
4.家族介護用品給付 65歳以上、要介護4以上→介護保険(市民税非課税もしくは生活保護 受給世帯)
5.タクシー利用券→身障1級

以上が私の場合妻が満年齢65歳を超えてかつ身体障害者認定されたことで受けることになった公的制度による補助である。満足か不満足かを書きたいのではない。ほんとに驚いたのと同時に、大きな負担軽減と安心感が得られたのは事実だ。とくに医療費全額免除と介護用品給付には助けられている。この一ヶ月でこうした補助を受けられるようになったわけだが、まさに激変といってもよい変化だ。

このことがあって、逆に思ったのは介護が必要な障害や若年性の認知症に罹った人を抱えた家族がいかに尋常ではない状態に置かれてしまうかということだった。例えば定年前に世帯主が若年性認知症となり介護が必要となった場合ほぼ絶望的な状況となる。要介護認定を受けてもそのサービスを使う費用以上の収入を得ることはかなり難しい。今まで仮に年収800万円から1000万円くらい収入を得ているとしてそれがいきなり途絶えると考えると仮に障害者年金を受けられるようになっても年間90万円ていどの手当しか受けられない。保険料も前年度の収入によって決められるから退職した時点で大幅な支出が止められない。劇的な生活の縮小を想定しなければ生活が出来ないことになる。サラリーマンの方なら退職金や貯蓄の切り崩しによってこの急激な変化を和らげつつ適当な着地を目指すことになるだろうが、おおよそ一部の高所得者を除いてなんとか生活を維持できるのは長くて3年ぐらいだろう。

一方妻がそうなった場合はどうか。とあるメーカーに務めていた課長職の方の奥さんが妻と同じくくも膜下出血が原因で重度の認知症になられた。会社に事情を話して、残業と転勤の免除を申し出ていた。二年ほどは会社もそれを認めてくれていたが転勤命令が出た。離職せざるを得なくなった。家のローンは退職金で完済し、貯蓄を切り崩しながら介護を続けていたが約二年でそれが尽き、現在介護サービスを使いながら自身もヘルパーの資格をとって働いている。だが、手取り17万円ほどで奥さんにかかる介護サービスの支払が10万円はかかる。さいわい奥さんが障害年金2級を受け取れるようになったのでなんとか生活は維持できているが、まだ自分が年金受給年齢に達していないのでそれまではなにひとつ贅沢は出来ない。彼は住宅ローンなどが無いので(完済できたので)まだ恵まれている方だという。これは身につまされる話だった。それはそのまま私にあてはまるからだ。
さまざまなケースがあり仕事を続けられる人もあれば自営業の人なら仕事の自由度もサラリーマンよりあるという場合もある。しかし、職人さんや日雇いの給与生活の人たちではたちまち生活そのものが成り立たなくなる。悩めているうちはまだましだ。あるとき突然に土石流に押し流されてしまうように生活は崩壊する。おそらくそんなことに出会わないかぎり、「社会との関係」は見えてこない。それまでは利己的に生きていくのに必要な社会との関係だけが自分を構成している世界であり社会なのだということを思い知らされる。
介護保険が孕んでいる問題は、個別のサービスが有効か無効かという議論ではなく社会保障制度とセットで考えられなければならないだろうと自分なりには思うようになった。自己責任だという人もあろうが、それは言える立場の人が言うだけの(しかも声高に!)、溺れている人に石を投げつけるような意見だと思う。また、それを言いうる社会として今の社会が整備されているわけではない。そういう社会を実現してから言えと言いたい。

以前、少し関心を持って介護保険にあたったときに、介護保険制度の誕生について「措置から契約へ」というのがいかに大きな前進であったかという主張を読んだとき、少し違和感を持ったことを憶えている。その時この違和感について明確な輪郭を持てなかったが、今は少しだけ表すことが出来る気がする。この契約の主体はいわば「今(今後)の社会が想定する成熟した市民」を前提にしていると思う。そこには新たな市民形成をしようとする政治的な動機が含まれていたのではないか。たんに弱者にやさしい社会とかの主張の政治的対立ではなく、今までの大きな枠組みの中で「恩恵としての措置」を獲得していた層を解体し、新たな制度のもとに再編する役割を担っていたのではないか。私の推察が正しければ、この動きに対応する政治、経済動向の痕跡が見つかると思う。
現在介護保険制度は経済不況のあおりを受け、また発足当時から抱えていた問題が露出して迷走を続けているようだが、おそらく当面は当初の目論見を手放すことなく、現状を過渡期とみなして生き延びようとするはずだ。なぜなら、制度設計の動機、導入過程でそれは新たな管理体制を構築することであり、すでにその体制は強化の一途をたどっている。
それはきっと『ともだち的(20世紀少年からの思いつき・注1)』にはこうだ。「皆さんの幅広い意見を、また現場の方、専門家の方の意見を聞かせてください。我々はそれを真摯に受け止めてよりよい制度を造っていきます」と。しかも、それは「無いよりあった方が良い」という暴力的な説得力を持って君臨し続ける。介護保険は無くては困るが、社会保障とは連動せず、かつ介護者の就労の前提を保証もせず、医療からは切り離し、逆説的に家族の自由(皮肉である)に委ね、家族(から)の自由を奪う。この現状を訴えれば訴えるほど、要介護者、高齢者を棄民する口実は蓄積されていく。非実在の合法的な社会化である。もちろん!それを望んでいるのはあなた方なのだ、と。「現在の権力は禁止したりしない。許可することで強化される権力」と言ったのはMさんだが(大意)、まったくそうだと舌打ちが出るほど頷かされる。

とりあえず、この辺りの実感を初歩的な出発点として考えてみたい。

注1 「20世紀少年」は浦沢直樹の漫画である。たまたま映画となってそれがテレビでやっているのを知って引用したが、映画の方は観ていない。浦沢直樹は昔よく読んだ。「踊る警官」、「NASA」、「パイナップルARMY」、「MASTERキートン」とかは面白くて買ったが「MONSTER」や「20世紀少年」はよくわからなくてぜんぶは読んでいない。
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脱水症らしい。 [介護と日常]

相変わらず暑い日が続いている。夏だから当たり前というわけではない。すでに京都市内では日陰の涼しさであるとか、それは例えば路地の石畳にうたれた水の涼しさといった情感そのものも奪われているという暑さであって、まぎれもなく私たちが初めて出会っている夏と対決しているのだ。これをすぐに地球温暖化とか言いたいわけではない。おそらく郊外に行けば畑仕事の途中で木陰に入り、ヤカンに入った冷えた麦茶を飲み少しの涼をとるという夏は確実にあると思われる。ということは、都市に住む人間は紀元前から使用されているコンクリートとアスファルトに覆われた大地に復讐されているのだ。都市は残された遺跡と同様の運命を常に内包している。

この界隈では今年も陶器祭りが始まった。陶器祭りが終わるとお盆になり、五山の送り火があり、地蔵盆があり夏は9月の下旬まで至る所にその痕跡を残しつつ消滅する。夏の青空を見つつ子供の頃の夏休みの夏空の記憶に閉じこめられている。

今週の月曜日の朝、5時過ぎに暑さで目が覚めた。すぐにクーラーをつけ、布団を上げてベッドに目をやると妻は目を開けて赤い顔でこちらを見つめている。暑いねと声をかけながら薄い夏布団をめくり、おむつを交換しようとして異変に気がついた。身体が熱い。体温計を脇にはさんで計ってみると38度を超えている。すぐに氷をビニール袋に入れ両脇の下と首筋を冷やした。冷たいお茶を飲ませたり氷を交換したりしながら時間を見計らっていたが下がらないので病院に電話した。すぐに往診してくれることになった。
夜中のクーラーは、まず私が苦手だということと、一晩中クーラーをつけるのは身体にも悪かろうという思いこみがあった。夜の空気を入れつつ、水分に気をつけていればうんと健康的に夏を越せるのではないかと思っていたわけだ。往診に来た医師はすぐに点滴をして、血液を採取しその結果を持って翌日も来てくれることになった。
翌日、一回の点滴では熱は下がらなかった。血液検査の結果では、ナトリウム値も正常だったが炎症値が少し高いということで抗生剤を加えて熱が下がるまで24時間継続の点滴ということになった。そして、火曜日から木曜日まで一日1.5リットルの輪液に、抗生剤が朝夕2本に各種ビタミン。ようやく熱が下がった昨日から一日1リットルの輸液に朝夕の抗生剤が続いている。

で、なにが原因の発熱であったかというのは三度の血液検査でもわからない。きっとたんなる脱水症ではないだろうかということに落ち着いた。今は医師の指示に従って一日中クーラーをつけっぱなしにしている。そして自分がクーラーを避けて隣接する居間に布団を敷いて寝ている。
昨年の夏か一昨年の夏にも同様のことがあり、その時は入院した。そして、ふと思い至ったのは以前の発熱も自分の思いこみ(常識)が招いていたのかということだった。なにかがあるとつい相手の側に原因を見ようとする。悪い癖だ。

今回、初めて訪問看護を受けている。往診に来てくれる先生も看護婦さんたちも臨機応変で感心させられることが多い。病院での診療とはまた違う感じで頼もしい。彼らもまた「ブリコラージュ」の人たちであるなと感じる。また、入浴が出来ないので全身をきれいにしてくれるためにヘルパーさんたちにも入浴以上に世話になっている。昨日などは訪問日でもないのにベッドのことで電話をくれて、アドバイスをいただいた。こういう支援にはほんとうに力づけられる。やっていけそうだと思う。

ここ最近、アクセス数が少し増えているのに気がついた。何気なしにリンク先を見ると野田さんがリンクを貼っていてくれた。少々というかそうとう面はゆくて恥ずかしい。野田さんはケアサポのWEBでも「俺流オトコの介護」という連載をはじめている。私より少しだけ若いが(少しだけは余計かもしれませんが)、ほんとにくぐり抜けたものだけが語れる「本音」を表現できる人だ。私の考えでは、「本音」とは辛い苦しいを生のままの声で表現することではない。介護という千差万別の現実を串刺しにして、獲得できる可能性としての現実を表現できるのが「本音」である。だから、彼の表現は専門家にも届くし、介護の現実を知らない人にも届くのだと思う。彼が以前テレビで在宅での介護に触れて、もっとも辛かった時期をふり返りつつそれは「心が砕かれるんですよね」と胃の腑から吐くように絞り出した言葉が忘れられない。
私は以前、この在宅介護の大先輩にちょっと失礼な紹介の仕方をしたがこの場でお詫びをします。私が一方的に感じていたシンパシーゆえのことでして、ご勘弁ください。リンクありがとうございます。

さて、退院後いきなりの病気報告となったがさいわい元気を取り戻して、いつものように食欲も旺盛になってきている。点滴はこの週末は続けて月曜日に外すことになっている。
最後に笑い話を。24時間点滴体制をとるのに腕に針を刺したままだとほぼ間違いなく抜いてしまうだろうということで、動かない方の足に点滴針を指すことになった。幸い看護婦さんの腕がよかったのか、一発で針は血管に入りしっかり固定されて若い医師と可愛い看護婦さんと三人で「これで万全!」と喜んだ。で、二人が帰ってしばらくしておむつを交換しようとしてハタと気がついた。パンツはサイドが破けるので外せるが、穿かせられない。なんということだ。ハンガーに釣られた点滴とラインと悪戦苦闘しつつパジャマとパンツに通してその日はなんとか交換できた。苦境を聞きつけて、訪問に来てくれた看護婦さんが翌日緊急に前あわせのオムツを差し入れしてくれたので、なんとか急場をしのげた。入院時以外はずっとリハビリパンツでやってきたのでオムツがない。動けるようになるとオムツは極めて非効率的で動きを妨げるからなんとか買わずにすませられないかと思ったが、諦めました。以前のようにあまったらすぐにオムツをデイケアで使ってもらったりせずに、こういうことは今後もあるだろうということで常備することにした。
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いちおうこんな状態で点滴を続けている。

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晴れて老人の仲間入り [介護と日常]

連日猛暑が続く。17日祇園祭の鉾巡航日に長い梅雨が明けたようだが毎日のように37度をこえる日が続くのにはまいった。この間雨は一度だけ、20分ほど雷と共に滝のように落ちてきたが雨が上がると蒸気が立ち上りサウナのようになっただけだった。こんな夏は三年ほど前にもあったように思うが、気温が35度をこえるとさすがにきつい。

最近急に身体が軽くなってきた。どこかしこ張ったり痛んでいた箇所に痛みが無くなり、身体に薄皮のような筋肉の膜が一枚かぶさったような感じだ。とくに腰から臀部にかけてそれを感じる。

27日は妻の65回目の誕生日だった。これで、晴れて老人の仲間入りとなった。まだ以前のようにはじけるような笑顔を披露してはくれないが、昨年末のことを思うとこんな風な時間を一緒に過ごせるとは正直思えなかった。これは子供達も同じだった。ささやかなケーキだけを用意して誕生祝いをした。プレートの名前が「様へ」となっているのがおかしいけれどもそういうことはもう気にしない。喜んでロウソクもぜんぶ吹き消したし、久しぶりに家族四人でいろいろ談笑した。

ところで妻は少々夏ばて気味なのかもしれない。それに四日前の火曜日、シャワーの時にヘルパーさんにお尻から太ももにかかるところにすこし床ずれの徴候があると指摘された(発赤)。部位を確認するとどうやら車椅子や室内の椅子に長時間座ることによってできかけているようで、ベッドと椅子に床ずれ防止のクッションを用意しなくてはとちょっと焦っている。(その後すぐに、ヘルパーさんからケアマネに働きかけてくれていて昨日レンタル会社が試用品を持ってきてくれた。介護保険のレンタルでいけそうだ。ヘルパーさんたちにはほんとに助けられている)

NHKのETV特集で、胃ろうについての特集番組をやっていた。胃ろうを日本に広めた医師が、胃ろうから栄養をとりつつも意識もなくベッドに寝たきりになっている高齢者の姿を見て、これが人間本来の姿なのだろうかと疑問を持つところから始まる。そして、胃ろうを拒否して「自然死」として親を看取った家族の話や、さまざまな患者や家族、医師などとの対話を追っていくという内容だった(と、思う)。

私の考えは、この問題でははっきりしている。個体が生き延びられる条件を持っているかぎりは意識があろうと無かろうと医療的処置によって生き続けられる道を選択する(臓器移植の問題も含めるなら、私は消極的な否定論者である)。それが自然の順序だと考える。自然の順序は否応なく社会の順序に属する生や思想を浮き彫りにしていく。生きている意味や価値がどのように語られ、追求されようとも、生(なま)の生に向き合っている目の前の事実を社会の順序の価値観で覆い隠してはならない。ましてや医師に患者の人生の価値判断をする権利があるとはとうてい思えない。それは家族にだって同じ事だと思う。それはたんにその生の死を願っているだけにすぎない。
生きられる条件を持ち、生き延びられる処置をしたのになぜ寝たきりになってしまうのかという問いは、医学的な意味においても医療・看護体制の意味においても介護の意味においてもこの番組ではきれいに省かれていた。
胃ろう問題の特集番組を興味深く見たのは、胃ろう当事者の家族であり認知症の介護をしているからにほかならないが、死生観や死にまつわる文化論と医療の問題を安易に重ね合わせるのには違和感があった。
胃ろうは先進諸国ではほとんど行われていないのになぜ日本では多くの高齢者や寝たきりの人が胃ろうを行うのかという問いに対して、すでにある現実とその問いが出てくる背景には経済論的な問題があることは明かであろう。同時に、医療が先端の科学技術の衣装をまといながら、制度そのものであることを表している。
たまたまコーヒーを飲みに行った先で手にした週刊誌の特集が、死と医療問題であった。よりよい死とはなにかとかに、宗教哲学者・山折哲雄、よくテレビの福祉番組で見るさわやか福祉財団の理事長・堀田力他、医師、文化人、作家などがこたえていた。ここで思い出すのは後期高齢者保険制度が施行される前には、病院が高齢者のサロン化しているといったキャンペーンが盛んにはられていたことだ。山折哲雄や堀田力など、彼らは今こうした問題に答えるということはどういう事なのか、十分に自覚的であろうと思われる。その理由は、彼らが語る死生観はわれわれ庶民のささやかな希望をとりだして仮託しているにすぎないのに彼ら独自の思想を語るように見せかけているからだ。その手つきは迷える大衆を導く賢者の姿を借りながら「制度の中の死」を合目的化しようとする制度の代理人そのものである。
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退院後はじめての登場です。元気です、元気ですが一度ベッドの縁に座っていて前に転び顔をすりむきました。大事なくて良かったです。やっぱり目を離せないのは同じです。
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サッカーとか、ぬか床とか。 [介護と日常]

ワールドカップ
ワールドカップも今日まで(正確にいうと明朝6時過ぎには延長・PK戦になっても終わる)。四年前もそうだったがこの時ばかりはにわかサッカーファンとなる。早朝になろうがどの時間帯でも中継があればすべての試合を見てきた。日本代表は残念ながらベスト4の目標は達成できずに決勝トーナメント一回戦で敗退した。実はベスト8には行くのではないかと期待していたのだが残念だった。総じてグループリーグは退屈な試合が多かったが、決勝トーナメントに入ると俄然熱をおびた戦いが見られて熱中している。
日本代表がグループリーグを突破するのではないかと思い始めたのは5月30日に行われた親善試合イングランド戦を見てからだった。中村俊輔が欠場したこの試合でそれまでの目を覆うばかりの低迷から脱出できるきっかけが見えたのではないかと思ったからだ。いろいろな予想を立ててみるのは面白かった。そしてつづくコートジボワール戦を見たときに、もし岡田監督が中村俊輔を外す決断をして戦術を組み直すならばグループリーグでの惨めな敗退はないだろうと思った。あくまでも期待込み以上のものではなかったが、きっとリーグ突破するという予想を、期待できないと書いていたお友達ブログにコメントして本番を待った。
結果、代表の戦いぶりは予想を超えてすばらしかった。後半40分を過ぎても今までのような追い詰められた表情どころか雄々しく見えた選手たちに、守備が安定するとこうも自信をもって戦えるものなのかと驚いた。こういう代表チームを見たのははじめてだった。おそらく個々人の力は前回大会の代表の方が上回っていたのではないかと思うが、チームとしてはひとつ進歩した感を強くした。昨夜NHKのドキュメントを見ていて知ったのだが、代表でのチームの結束とか一体感とか選手たち自身が初めての経験だったと皆が口を揃えて言っていたことだった。個の力を補う組織力が日本の特徴であり強みであり文化であるとかは多くの人がさんざん浪費してきた言説だが、そんなものは今回初めて選手たちが発見するまでどこにもなかったということだ。つまり、望みばかりを語っていたことになる。
決勝トーナメントは残念だった。岡田監督は試合後、敗戦は自分の力不足だったと言ったが、それは率直な感想だろうと思った。選手交代にその限界を感じた。おそらく野球の野村なら監督のせいで負けた、あるいは監督次第で勝てる試合だったと評価するのではないだろうか。
中村俊輔はとうとう不調から脱出できなかった。この舞台に照準を合わせて怪我などで出場機会に恵まれなかったスペインから国内復帰し備えたはずなのに、代表の評価が凋落していった軌跡と中村の不調はシンクロしていた。とくに本番直前の韓国戦では目を覆うばかりだった。もともと私はこの天才的な選手のプレイスタイルがあまり好きではなかった。だが、オシムに呼ばれてからの彼には何度も目を見張らされた。しかし、巡り合わせが悪いというのかなんというのか今回唯一出場機会があったオランダ戦後半の交替で彼は局面打開どころか危機を招く始末だった。次の出場はないと思わせるに充分だった。残酷だが、彼の不調が岡田の決断を産みチームの結束をもたらした。耐えられなかったというのはまさに本音だったろう。絶頂の中村が倒れなかったオシム采配の元でこのワールドカップを戦っていたらと夢想するのは悪くない時間の過ごし方だった。
さて、今夜の決勝戦。勝敗の行方はタコ君に任せてじっくり楽しませてもらうとしよう。

妻のこと
退院時に6月中に提出した方がよいといわれて渡されていた身体障害者手帳申請のための医師の意見書を、必要書類と共に提出したのが6月28日だった。窓口で、決定が下りるのに50日ほどかかるといわれてそのつもりでいたから、ほとんど忘れていた。ところが交付決定が下りたので7月8日以降に受取に来いと通知が来た。驚いたが、なぜ申請したのかその目的を思い出してすこし肩の荷が下りた。ほかにも今年の誕生日で満65歳を迎えるのだが、介護用品の補助などが制度として用意されていることをヘルパーさんから聞いた。これらで助かる部分を訪問リハとかに役立てたいと思っている。
日常生活のほとんどに全面的な介助が必要だが、少しずつこちらの体が馴染んできているのを感じる。入浴介助も最初のうちはヘルパーさん二人と私との三人がかりだったが、ずいぶんスムースに事が運べるようになって今はヘルパーさんと私の二人で充分こなせるまでになった。これは彼女が入院時にリハビリでよく訓練されていたことも大きい。ヘルパーさんが来ないときでもちょっと娘や息子に手伝ってもらうだけでシャワーが出来るようになった。
排泄処理もベッド上で洗い流す方法を教えてもらったりとこれまた少しずつレベルアップの最中である。階段の下りはちょっとしたことがきっかけで、私一人でも下ろせることがわかった。ようするに、べつに立って下りる必要なんてなかったのだ。ただ、よく雨が降るのでまだなかなか外に出られないけれども。予想したとおり、妻も落ち着いてきてときおり笑うようになってきた。そこで、今月に入ってから週一回デイケアに行ってもらうことにした。お迎えが来たとき、私と妻がすでに階段の下で待っているのを見て職員の方が驚いていたがそれを見て彼女も嬉しそうに笑って問題なく出かけてくれた。逆に今度は上りの方がたいへんで、上まで上がると介助の人も妻も汗だくである。
以前に加えてすることが格段に増えたが、(とくに洗濯はちょっと以前と比較にならないほど増えた)目を離すと何をしでかすかわからない(確実に以前はなにかをしてしまっていた)状態から解放されて、まるで治まるべきところに治まったような生活となった。眠いときには寝られるし、妻を一人置いて食事の買い出しにも出かけられる。絵を描いたり本を読んでいる横で私も本を読んだり出来る。制御できない突き動かされるような衝動の気配を感じるときはある。だがその瞬間彼女は自由に動けない自分の枠組みである身体に気づかなければならない。そうしたときの妻は私のことに気がついてくれる。そして優しい。私も以前よりずっと穏やかに接することが出来る。ギスギスしたり破壊的な衝動に駆られることもない(今のところ)。
肘が痛んだり、身体のどこだといえない鈍い重さや痛みがあるがきっと三ヶ月もすれば私の身体は今の生活にふさわしい身体に変貌すると思う。

プランターの野菜
ベランダを少し片づけてキュウリと茄子、トマトそれに鷹の爪の苗を買ってきてプランターに植えた。キュウリは順調に育ち収穫できている。茄子は最初は花は咲けども実をつけてくれなかった。10日ほど前から米のとぎ汁をやるようになってから急に実をつけはじめた。単純に土に栄養がなかったのかもしれない。キュウリや茄子が実をつけていくのを見るのは初めてだったので毎日観察して楽しんでいる。面白い。鷹の爪も立派に成長している。問題はトマトである。これで三年目になるがまともに出来たことがない。苗の当たりが悪いのだろうか。ネットでtamiさんにアドバイスを受けたりしたが花ひとつ咲く気配もない。苗が悪いとの結論に達し植え替えようと思ったがいざ抜く段になるとどうも忍びない。この展開は過去二年と同じである。枝芽も放置してそのまま成長するに任せている。元気はやたらあるのだが今や雑草と化している(苦笑)。だけどベランダの緑として十分に役割を果たしてくれている。自家製のトマト、鷹の爪、バジルで手打ちのパスタをつくる夢は来年までとっておこう。

ぬか床
6月17日をぬか床記念日とした。冬を越えたぬか床はいまや堂々とした漬け物を提供してくれている。やっと納得する味になった。人参、キュウリ、茄子、こかぶ、大根と日々食卓を飾る。毎日ぬか床に手を入れるとなんとなくだが調子がわかるような気がするから不思議だ。塩や糠、辛子に昆布やカツオ節、椎茸などを状態に応じて足したり、時には大がかりに手を加える。
やむを得なかったというありきたりの言い訳を口にしつつ、台所は妻から奪った領土である。奪ったからには守らなければならない。そして奪われた者の中で「新たな台所」を実現することでしか問題は解消できない。ぬか床はそんなわが家の事情の象徴となりつつある。
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最後の報告 経過22 [介護と日常]

昨夜は緊張で疲労してしまい、退院報告をすぐに書けなかった。あらためて、みなさんありがとうございました。無事帰ってまいりました。

朝10時までに退院するようにと言われていたのですが、先生の事務処理が長引いて結局病院を出たのは10時半を過ぎていた。スタッフの方や仲のよかった患者のみなさんに一通りの挨拶をしてから階下におり、リハビリの先生方にも挨拶をして病院を後にした。福祉タクシーを予約していたので、車椅子のまま車に乗り込み家に到着。その後、すぐに家に上がらずに、家の周囲をぐるりとまわってスーパーで買い物をしてから家に上がった。
最初の難関の階段上がりは、こちらも緊張して体に力が入り途中でどうなるかと思ったが、妻の頑張りでなんとか上がりきった。ここは勝負所だと思ったのだろう。増設した手すりも上手に使って二人ゼーゼーしながらやっとこさ室内用の車椅子に。
冷たいお水を飲んでひと息ついてからスーパーで買ってきたお寿司を食べた。食後しばらく車椅子のまま休んでいたが、コックリしはじめたのでベッドに横になるとすぐに寝始めた。私も畳の上にそのまま二時間も寝てしまった。目覚めると、いきなり筋肉痛の初期症状が首や足腰に出ている。これは扱いになれるまで仕方がない。

目覚めてからは車椅子に移動してしばらく外をじっと眺めていた。私が植えたキュウリの花や茄子の花を飽きもせずに眺めている。妻が乗りこえて落ちたベランダの柵には遮蔽板が取り付けられていた。この遮蔽板を六月に取り外した。白い乳白色のアクリル板なのだが、ふとこれがなくて眼下との距離が測れていたらここを乗りこえようとしたりしなかったのではないかと思ったことも理由のひとつであったが、この遮蔽板を取り外した事によって、まったくあらたな環境が出現した。
この家は、すくなくとも二階はすばらしく風通しのよい家だったのである。昨年まで、夏に窓を開けておくことなんて考えられなかった。尋常ではない暑さは、ベランダの下にある駐車場の屋根の照り返しだとばかり思っていたのだが、それは違った。遮蔽板が温室のような役割を果たしていたのだった。それに屋根が冷える夜になっても通り抜ける風を全て塞いでいたのだ。気持ちのよい風を感じながらじっと外を見ている妻はずっと不機嫌だった。

夕食の後、仕事帰りの娘がお祝いのケーキを買ってきてもその不機嫌さは続いていた。その後深夜に及ぶ三度の排泄で不機嫌の事情が飲み込めた気がした。家に帰るということは自分を不慣れな素人にゆだねることでもあるわけで、遠慮やもろもろを含めて不安と向き合っているのだろう。hanaさんのコメントにも退院に際しての不安に触れられていた。夫婦、家族が手を取り合って自宅に帰れたことを喜び合うという絵に描いたようなシーンではなく、妻の不機嫌によって、これから始まる生活の実相から始めよと示されたことはなによりだと考える。これまでもいつもそのようにして具体を示してきたことを忘れないようにしたい。

一夜明けた朝、とうとう始まったなという感じ。私への信頼と安心が確認されときに妻の不機嫌が時々の笑顔で塗り消されていく過程を歩むのだろう。朝食後の短い室内歩行訓練では、介助をする私が汗だくになって終わった。いろいろな局面での介助は慣れなくてなかなか大変だが、おおむね想定の範囲内である。少し慣れてくると無駄な力も抜けてくるものと思われる。私はだいたい昔から不器用で、なにかを始めると一定のレベルに達するまで人より時間がかかった。でもいったんそこに達するとそこそこのレベルを実現できてきたので、今回もそれを自分に期待している。

ということで、これまで続けてきた経過報告をいったんここで終えたいと思います。書かなかったことはたくさんあるけれども、入院から退院にいたる大枠はそれほど漏らさず書けたと思います。長い間妻と私への声援ありがとうございました。大げさな同情や歯の浮くような美辞麗句など縁のない、皆さんの静かで力強い応援はほんとうに心に染みました。これからはまたぼちぼちと日々の徒然や大きく修正を余儀なくされ難破船のように彷徨している思考の足跡なども勇気を持って文字にしていきたいと思っています。
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退院は21日 経過21 [介護と日常]

先週の木曜日、入院している病院に関係者が集まって退院後のサポートについての関係者会議がおこなわれた。病棟の担当者、主治医、理学療法士、作業療法士、言語療法士などから妻の現状の報告があった。在宅をサポートする側からはケアマネージャー、通所リハビリ、ヘルパー派遣事務所、福祉器具レンタル会社とけっこうな人数となった。
退院日は今月21日。当初は15日の予定であったが手すりの取り付けとかの改修工事の段取り、私の都合などからこの日に決まった。
何しろやってみないことにはわからないので、当面は入浴介助を週三回1時間の身体介助で様子を見つつ、私の側からの要望が出てきた段階で検討するということでお開きになった。もう一つ、病院に対する私の要望として退院までに階段の上がり下りと、浴場での移動に関するアドバイスがもう一度欲しいと訴えたところ理学療法士さんと作業療法士さんがスケジュール調整して時間を取ってくれることになった。ヘルパー派遣事務所の方もぜひその時にあわせて自分たちも参加したいと申し出てくれた。

そして、完全に夏日となった今日(木曜日)午前、階段の上り下りやリハビリ室に浴室の環境を摸したセットを配置して手すりをどの手で掴むか、どの足から進めるか、介助はどの位置に立つかなどを実際に妻を相手に検討を加えながら体験してきた。
リハビリ室には半年ぶりに会ったヘルパーのMさんとTさん。懐かしかった。妻も何となく覚えているようで警戒心はまったく見せなかったし、入浴後であったにも関わらずけっこう張り切ってすすんで協力してくれたのだった。PTのK先生も「今日はお風呂の後なのに頑張ってくれましたねえ」と感心しきりであった。

ヘルパーのMさんとTさん、それに事務所の責任者のたぶんKさん(じつはこの人のことはよく知らないというか覚えていないのだが何度か途中交替とかで家に来てくれていたらしいのだ)達は最初は大変な介助になるかもしれないというような不安げな表情だったが、実際に体験や検討に入るとがぜん積極的になっていろんなアイディアも出てくるし、上手くいくと拍手も出て妻も喜んでいる。力強い限りだ。その点私などは情けないもので、こころのどこかに「最後は頭突きというか腕力で解決するしかない」と諦めてるところがあり、これはそのまま自分が年をとると何も出来なくなることを前提にした敗北主義者のようなものだ。いや、そりゃあ私だって実際の介助に関して三好春樹のビデオやなんとかという偉い先生の古武術を応用した介護とか勉強はしましたけどね。知恵を出すということは身体を張るということなんですね。智恵がなければ身体も張れないわけでして、彼女たちのたくましさに猛省をしました。

短い時間だったが退院後に希望が持てる内容で終えることが出来た。そう、これが大事なんだよなあと思った。以前記事にも書いたが、初期の段階で介護者に充分な知識があれば目前の地獄のかなりの部分は回避できると私は今も確信している。
ヘルパーさん達に「遠いところ、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。ところで今日はなんで来たんですか」と聞いたところ、なんと三人とも原チャに乗って来たのだそうだ。Mさんが「そう、みなの迷惑も顧みず三人で東大路を流してきましたのよ、おほほ!」恐るべし、ヘルパー原チャリ団。彼女たちの労働に充分な見返りあれと願う。
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一時帰宅 経過20 [介護と日常]

本日、雨が降るなか、理学療法士さんとともに妻が一時帰宅した。約半年ぶりの帰還だった。
午後二時を過ぎるとケアマネさんや業者さんたちと話をしつつ、ちょっとソワソワして帰りを待った。ほどなく玄関のチャイムが鳴り妻が帰ってきた。ドアを開けるとちょこんと車椅子に乗った妻の姿が現れた。おかえり!と声をかけるとにっこり微笑みながら「ただいま」と言って入ってきた。

まず、理学療法士さんの介助で車椅子から降りて階段に向かう。途中直角L字に曲がった全部で15段の階段を一歩ずつ約9分かけて上がった。両手で手すりをつかみ、左足をまず階段に乗せ次に右足を引き上げるように乗せる。この時に右足は階段に乗せられないので、後ろから抱えた介助者が自分の足を右足裏に差し入れて段差の上に乗せる。これの繰り返しだ。両手で支えていると右足でも突っ立っていられるので、左足を次の階段に乗せることが出来る。だが、バランスがとりづらくグラグラするので介助する側もよほど慣れないと危ない。
階段を上がりきったところで体力を消耗してしまい、踊り場で腰掛けてしばらく休憩をしてから、ようやく部屋に入った。居間のテーブルに腰掛けてやっと落ち着く。

リフトの問題 構造上右側取り付けは難しい。左側側壁はかなり補強が必要となる。費用面でどうかというのが業者の見立て。
室内の移動は室内用の車椅子で。外出には外出用の車椅子を用意する。トイレはポータブルで対応。お風呂はユニットバスなので手すりがつけられない(これは最初の改装時の時に確認済み)。入浴は夏の間はシャワーチェアを手すりの代わりに使って移動できるようにリハビリに加えることとし、秋口には浴槽リフトを設置する。これは座るとそのまま浴槽の中に座ったまま沈むというもので、ユニットバスにも取り付けられる。

いろいろな検討が専門家の人たちの間で約2時間続いた。ときおり希望を聞かれるがたいしたことは言えない。なにせ、やってみなければわからないことだらけなのだから。
浮上した問題点は、手すりが片手の場合極端に不安定になる。階段の右側面のL字に折れた方向の手すりが切れている問題をどうするか。構造的にそこが鉄筋なので手すりはつけられないので、つっかい棒で固定して手をかける部分をつくる。次に上がりきったところの壁の部分につかめる手すりをつけることに。階段を上りきった踊り場から居間に入るところに段差があり、そこをスロープで埋める。
風呂場は脱衣所から浴室に入るときの段差があるので、入り口の部分に手すりをつける。その手すりをつかんで左手でシャワーチェアを支えにして段差を越え、座る。秋に浴槽リフトの設置。これは今の段階で(妻の身体能力)浴槽に入れてしまうと立ち上がれないからだ。一度全身が萎えた状態の時に風呂に入れて苦労したことがあってこの事は記事にも書いた。その時はバスタオルを体に巻き付けて引っ張り上げたが、それはもう重たかった。自宅での入浴を前提にしているので、浴槽リフトは大歓迎である。

以上が、今回の検討の結果だった。
さて、引っ越しかどうかの二者択一を迫られていると今まで書いてきた。だが、お気づきのように検討が始まった時点でリフトの設置は選択肢から無くなっていたようだ。まあ、そういうことだろう。答はこちらの決断ではなく外部からやってくる。それを受け入れるというのが解答だった。受け入れた上で新たな方向性に向かう。

病院に帰る時間になった。家から出て行くというのが理解できなかったようで、ちょっとだけ動揺する表情を見せた。さて、階段を下りるのはさらに難しかった。理学療法士さんはこの上がり下りを通じてどのような介助が必要かの最初のレクチャーをしてくれたわけである。階段の下りはまず最初に不自由な右足から下ろして体を支え、次に左足を下ろす。これの繰り返し。だが、上がりと違って後ろから右足を介助者一人では前に押し出せない。二人が必要になる。一人は後ろから体を支え、もう一人は前で右足をつかんで一段下ろす。面倒くさそうだ。たぶん、実際には家族がいる場合を除いて自分がやる場合はおぶるだろうな。一回り小さくなったとはいえ、元が重いのでこれからスクワットでもして体を鍛えなければと思ってハタと自分の年齢が気にかかる。

タクシーがきて、苦労して乗り込んだ妻に手を振ると一瞬抵抗を示して下りようとした。すぐに追いかけるからと言うと不信げな視線を向けながら雨の中、病院に向けてタクシーは走り去っていった。

今後の予定では退院前にもう一度検討会を開く。その上で退院ということになる。ケアマネから言われたのは、今までの買い物とかその他の生活援助は使えないので、入浴介助一時間を週に三回。その他をデイケアとかデイサービス、ショートステイなどで埋めるということになるらしい。私としては、当面入浴介助以外のサービスは保留した。
ショートステイはまず論外。利用者皆さんが以前より元気になって帰ってきますということになれば考える。
デイサービスは今まで利用したことがない。デイサービスでは入浴が出来るが、まあ風呂はゆっくり入れた方がよいだろという勝手な思いこみだ。
いずれにしても、介護が必要な人は千差万別で、自分で選択的にサービスを選べない現状では、許されるサービスの範囲の中で勝手を貫くのが最善だと思っている。サービスが無ければ無いでこれまたかなり大変だ。そこで週三回一時間の入浴介助を受けながら、ペースをつかんで以前のデイケアに週一回か二回利用できるようになればいいなと思っていることを伝えた。

わが家のケアマネさんはどちらかというと、制度の代理人的性格が強い女性の方で介護保険改正の時にはかなりぶつかった。すぐに契約を打ち切ろうと思ったが、それですんでしまえば面白くないから疑問などをぶつける相手としてつき合ってもらった。結果的に改正前と同じサービスを継続してもらえることになった。今回、約半年ぶりに会った彼女はなんとなく今度は以前のようには行きませんよという決意を秘めているようで、もう一度私も介護保険や身体障害などのサービスについて勉強しなおして、疑問をふっかけつつ楽しませてもらうつもりだ。
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経過19 [介護と日常]

昨日、主治医と三回目の面談。退院を具体的なスケジュールにのせたいがということだった。最近ちょっと入院生活に疲れが見え始めていると感じていて、そろそろ限界かなと思っていたので大歓迎であった。そこで、来月15日を退院予定とすることになった。来週の水曜日に病院の理学療法士さん、介護士さん、設備業者さんとともに妻も一時帰宅して家の様子を調査してくれることになった。家の調査が済むと、妻は家の状況に応じたリハビリに集中させるという。

面談が終わった後、面白くもなさそうに塗り絵をしている妻のところに行った。私を認めてもなんの変化も見せない。もうそろそろここも嫌になったのではないかと聞くと手を止めずに「我慢してるんや」と言った。やっと家に帰れそうだと伝えると最初は興味なさそうに「ふーん」という返事だったが、だんだん嬉しそうな顔になってきた。昼食時にはすっかり元気になって張り切っていた。

病院から帰ると久しぶりにケアマネさんから電話が入った。病院からケアマネさんに連絡してくれたようで、ケアマネさんはケアマネさんでヘルパーステーションやレンタル会社の担当者に連絡してくれていて、水曜日に今後の検討をしてくれることになった。

私自身、これから今までに加えて何が必要かまだ具体的なイメージはつかめていない。サービスを使い始めた頃にはすでに一定の時間経過があったので、その経過の中でたいがいのことは経験していたので改めて知るようなことはなかったが、今回は専門家の人に教えてもらわねばいけないことがいろいろあるだろうと覚悟している。

悩んでいたことは、状況説明そのものが解答であることに気がついた。
つまり、リフトの設置か引っ越しかということなのだが、現状復帰が難しい改修は駄目なので専門業者にどの程度の補修や改修で設置できるかを判断してもらい、可能であれば設置する。不可能であれば引っ越しする。これがまず単純な答え。この答えに関わる諸問題は、まあ別に本質的な問題ではない。だけど、この本質ではない部分に翻弄されるのが生活というもので、これはいろいろ悩みながら解決の過程を楽しみましょうということになるだろう。そろそろこの経過報告も終わりに近づいてきたのを実感する。振り返ると、ここまで恢復してくれるとは正直思っていなかった。妻は新たに身体の不自由を抱えてしまったけれど今はまた一緒に生活できることを喜びたい。
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母の日に 経過18 [介護と日常]

今日は母の日だった。午後になって娘と一緒にカーネーションを持って病院に行った。
病室にはいると昼寝中だった。というか日曜日にはリハビリもないのでベッドで寝るしかないのだろう。
娘が「おかん!起きて!」と起こす。まったく、品性のかけらもないわが家である。
熟睡中だったようで、妻は「ああ、 お き ま す」と不機嫌そうにもそっと目を開けた。「ます」の語尾を上げるような調子は昔から不機嫌なときの口調だ。
そのねぼけ眼の前に花を差し出すと「うわあ!ほんまに〜!ありがとう!うれしい!」「きれいなカーネーションやね!」とちょっとびっくりするような明確ではっきりでしかも大きな声で喜びをあらわにして、その喜び方にたじろぎながらも逆に感動させられてしまったのだった。

つい最近、こんなことがあった。天気も良いので病院の周りを散歩した。住宅街を周りながら植えられている花の名前を聞いた。その花は芝桜だったのだが妻はなんの淀みもなくこう言った。「ああ、これは『百年の女神』やな」って。思わず吹き出さずにはいられなかった。いったいどこからそういう言葉が出てくるのか不思議でならない。ただ思うに、こういう反応は日常の不便を埋めるために防衛装置を強化している結果ともいえるわけで、かなり精神的には内向きの状態が続いているのだろうと考えると不憫だった。

ベッドから出て病院の屋上に上がり給水塔の影のベンチで気持ちの良い風を楽しんだ。如意ケ嶽の大文字が手を伸ばせば届きそうなほど近くに見える。妻は空を見上げ、雲の動きを追った。
今日は抜群の日だ。
空の雲を追い、山の緑を追うなんて怪我をする前にもなかったことだ。
私もベンチに寝転がって空を見上げた。かつてこんな風に吸い込まれるような空をただじっと見つめたことをもう忘れてしまいかけていた。
屋上の隅に置かれている枯れかけた花や雑草が生えている鉢に一緒に水やりをしながら記憶に残る日になるだろうと思った。
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経過17 [介護と日常]

五月、さつき。家の横の狭い路地を抜けると少しだけ広い路地に繋がって通りに抜ける。その少し広い路地の横にマンションが建っている。そのマンション一階の敷地から路地に向けて藤棚が伸びてきてすでに房は小さいながらも花を咲かせている。同じ敷地に決まってこの季節に路地に向けて枝と葉をのばす木があった。ずっと不思議な木だと思っていた。あれは葉なのか花なのかがわからない。紅葉のような色でもあり、もう少し淡く沈んだような色の葉のような花びらの中に花弁のようなものが見えるのできっと花なのだとは思っていたが、ずっと気持ちが悪い木だと思っていた。冬が終わろうとした頃に枝についた葉だと思っていたものが色づきはじめ、花のように丸まり始める。普段の姿が擬態なのかそれとも時を見て花の擬態を演じるのか。山が新緑で盛り上がり、充満する青臭い生の匂いに押しつぶされそうになりながらその擬態のような花を拒絶するように通っていた。
これが「ハナミズキ」の花であると知ったのはhanaさんのブログでだった。薄い黄色と薄い緑の色が混ざった花は紛れもなく路地に覆い被さるように咲く紅葉の色を淡く沈めた赤い花と同じものだった。不思議なことにあれがハナミズキだったのかとわかったとたん、路地が親しげな道に戻った。

ぬか床が冬を越した。まもなく一年になる。冷蔵庫での保管はしなかった。寒い日が続くときには三日に一度凍り付きそうになりながら混ぜた。だが野菜は漬けずに冬ごもりをさせていた。四月に入り、糠と塩を加えて新たに捨て野菜をいれ馴染ませた。ほどよく漬かり始めた四月の終わりにキュウリとこかぶを病院に持っていき、妻に食べてもらった。口に入れてポリポリ音を立てた後やっとこちらを見て「おいしい」と言ってくれた。
病院での妻はもはや堂々とした古株で、食堂ではまるで牢名主のような威厳さえ発揮している。ご主人にはいつも苛立ちを隠さずに大声を上げるおばさん(おばあちゃんではなかった)が本格的に妻の正面に座るようになった。そして、ほとんど食事を口にしないほんとうに小さくて、重い認知症のおばあちゃんが右隣の席に座る。小柄なおばあちゃんは自分に配膳された夕食をいつも周囲の人の前に置いたり引いたりして周囲から咎められ、最終的には隔離されるのが常だったが、いつの間にか私には理解できない交感が妻との間に出来ていたようで、いつものように妻の前に自分の夕食の器を並べ始めたとき妻が目で語りかけるようにして顔をしゃくると、おばあちゃんは自分で自分を指さし、それから特別に小さなおにぎりにされているご飯を食べ始めた。介護福祉士さんもおばあちゃんが食べ始めたことに驚いている。妻と正面のおばさんがお互い目配せしながらその様子を見て笑みを交わしている。その時気がついた。重度の認知症のおばあちゃんと妻、そして体の自由と言葉を失ったおばさんとの間で濃密ななにかが生まれていたのだ。そういえばおばさんは相変わらず怒りっぽいが食堂では以前のような大声を上げることは少なくなった。苛立つおばさんが声を上げると妻がちらりとおばさんを見る。おばさんは苦笑混じりに妻に謝る。それとは別に、妻がおかずを食べずにご飯ばかり食べているとおばさんが動かしづらくて震える手を伸ばして、おかずも食べなさいと勧める。妻は素直に従う。
そう、いつの間にかただのうめき声にしか聞こえなかったおばさんの言葉がかなりわかるようになってきた。右隣のおばあちゃんのか細い呪文のような言葉も聞き取れるようになっていることに気がつき、まるで私を含めた四人がずっと前からそうであるように夕食のテーブルを囲んでいるような気持ちになる。だが、五月に入りおばあちゃんの姿が見えなくなった。妻は何事もなかったかのように夕食のテーブルに着く。すでに妻にはおばあちゃんの記憶はない。

昨日少し嬉しいことがあった。正面に座るおばさんが私の姿を捉えると不自由な手で手招きして、となりに座る若い男性を指さした。「わたしのむすこ」だった。わざわざ紹介してくれたのだ。「こんな立派な息子さんがいたんですね」というと、嬉しそうに笑う。それから言った言葉に吹き出した。「いやあ、パーですねん」息子さんも思わず笑いながら「そりゃあ、仕方がない。お母さんの子だもん」と返す。妻もおかしかったのか私の顔を見ながら笑っている。おばさんはご主人の介助でもヘルパーさんの介助でもなく、息子さんの介助でめずらしくほとんど残すことなく食事を終えた。きっと自慢の息子さんだったのだろう。ちょっぴり幸せそうな夕食風景だった。

いきなり初夏のような暑さになった。上着を脱いだ病院帰りの夜風が快い。家に帰ってから七ヶ月ぶりに素麺をゆがいた。おいしかった。ところで、妻が倒れる前富山で買ったうどん玉のように丸く固めた素麺がそれまで味わったことがないおいしさだったことを思い出した。ネットで調べるとまちがいなく「大門素麺」のようだ。
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経過16 [介護と日常]

昨日(木曜日)四日ぶりに病院に行った。三日間何をしていたかというと、床に伏せっていた。ぎっくり腰でもなく久しぶりの風邪だった。わが家での風邪の震源地は決まって娘である。職場がはやり風邪の最前線ということもある。家のドアには大きな字で「うがいと手洗いを忘れるな!」と張り紙してある。もちろん、娘限定の張り紙で名指ししてある。
ところが、妻が入院してからなんとなくこの決まりも曖昧になっていた。娘がどうやら風邪をひいたらしいと言い始めたのが先週の土曜日の朝だった。その時から娘は居間に居座った。自分の部屋に行って寝ろと言っても聞かない。息子はこのパターンを熟知していて、食事が終わるとさっさと自分の部屋に逃げ込むか、職場に行く。私は娘に居座られると逃げ込む場所がない。何故自分の部屋でおとなしく寝ていられないのかとなじるのだがどこ吹く風のように「具合が悪いと一人では不安になったりするでしょ。そういう繊細な気持ちがわからんのかなあ」なんて憎まれ口を叩く。月曜日の朝になると娘は「よーし、間に合った。やっぱり気合いと根性やなあ」と言いながら仕事に出かけていった。

息子はこの水曜日から京都大丸で自身初の個展を開いている。といってもあまり良い場所ではないそうだが準備も含めて気合いが入っていた。娘の風邪から身を守るには「とにかく近くにいないことと、後は気合いやな」と同じようなことを言う。だが、逃れられない私に同情してくれる分、娘とは違う優しさを持っている。
わが家は知性と教養には縁がない。話がこじれると行き着く先はたいがい気合いと根性である。私はこれを「miyata家の頭突き主義」と名付けている。いや、そんなことはどうでもよい。娘が出かけた後私に変調が出た。咳が出始める。熱っぽくて喉が痛い。頭痛もする。とても起きてはいられなくなった。夜になって電気も点けずに寝ていると9時過ぎに帰ってきた娘がえらそうに「ちゃんと薬のんだんか。なんでそんなに薬が嫌いかようわからんわ」と言いながら部屋の電気を点ける。これが痛く感じて耐えられない。大声を出す元気もなく「頼むから電気を消して見えないところに行ってくれ。喋りかけるな」と言うのがやっとだった。
ひどい状態は火曜日まで続いた。水曜日にはずいぶん楽になっていたが病院に行くのは控えた。

病院に行くと、いつもは無表情な妻が珍しく穏やかな表情で迎えてくれた。久しぶりだということは何となく理解しているのだろう。食堂を見渡すと顔ぶれがガラッと変わっているのに驚いた。顔がわかる人が10人ほどしかいなくなっている。介護士さんに聞くと週明けから三日間で入れ替わりが多くて自分たちも混乱しているところだという。
夕食が始まり妻のお膳を見るとおかゆから普通のご飯に変わっている。「おお、やったね。また一歩前進やね」というと嬉しそうに笑っている。食後二人でティラミスをいただいてから、八時過ぎにずっしりと重い洗濯物を持って病院を後にした。

先週の金曜日、主治医と二回目の話が出来た。わずかずつだが、体力や自発性に向上が見られるということだった。が、結論的には自発的な歩行の可能性はゼロ。車椅子とベッドでの生活がメインになるであろうということだった。居住空間が二階から始まるということもあり、これからのリハビリは階段の上り下りが介助することを前提にどれだけ改善できるかが目標になるということを告げられた。それから、専門家でも今の状態では難しいので階段にリフトをつけることを強く進められた。引っ越しかリフトか。ほんとうは引っ越しがしたい。少しでもいいから土が見えるところに住みたい。ま、それは贅沢な悩みかもしれない。しかし、リフトをつけるにしても出費は深刻なものになる。選択肢が多いほど、悩みが深くなる。頭突き主義は明解ではあるが、過去最適解を選択したことは少ないのが難点だ。が、家に帰ってくる日が具体的になりつつあるというのは嬉しい。
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経過15 [介護と日常]

暖かかったり寒かったり。昨日、今日と寒の戻りのようで上っ張りなしには外に出られなかった。ここしばらく病院へはあまりの人出にバスで通うのを止め電車を利用して病院に通っている。出町柳駅から病院まで歩いて15分ほどかかるが散歩がてらに歩くのにはちょうど良い距離でさほど苦にならない。桜はようやく終わった。妻とは病院の近所にある百万遍知恩寺と京大の農学部に行ってそれなりに堪能した。

妻の右足が少し動くようになった。先週の金曜日、久しぶりに病院通いを休んだ。その日は娘に行ってもらったのだが、帰ってきた娘がお母さんの右足が動くって知ってた?と訊ねてくる。全然知らなかった。太ももを持ち上げられるというのだ。さっそく翌日病院に行って妻に動かせられるかを確かめると、何を今さらというような顔をして「動くよ。何をいうの」というので、やってもらうとたしかに座った状態で右足を10センチほど持ち上げられる。リハビリ室で先生に聞くとちょっと持ち上げられるようになりましたねえと言って、今日はお父さんも来ていることだし、まだ歩けないけれどもひとつ階段に挑戦してみましょうといって階段上り下りに挑戦した。もちろん、全面介助なのだが八段の階段の上り下りを二回往復した。
周りからも声をかけられるし、拍手なんかをされて妻の顔も晴れ晴れしている。けっこうおだてに乗りやすい性格だったのである。せめて、杖か歩行器を使えば短い距離なら移動できるようにならないものかと願っている。

食欲も旺盛で、残すことはほとんど無い。たまにケーキなどを食後に持っていくことがあるがそれも全部食べる。今週はタケノコご飯を炊いたので少しだけ持っていったが、夕食を全部食べたうえにタケノコご飯も全部食べた。今回の事故でずいぶん細くなったが、栄養状態は悪くなく今のところ床ずれの心配もないということだ。

なにかの拍子に突然不機嫌になるときがある。そうなると何を言っても無視するし、例えば食事の手助けをしようとすると拒否される。こんなことはずっと前からあることで、なにがきっかけに不機嫌になるのかなあと思っていた。突然不機嫌になってやることなすことに抵抗されたり拒否されたりするとこちらも腹が立ってくる。
つい最近食事中にまたかという感じで不機嫌になり口をつぐんで食べなくなった。一定時間を過ぎると忘れるので再開すると食事は全部食べるのだがその時はたまたま「なんで?」と聞いたら理由を話してくれた。「仕事場で私が仕事しているのにあんたが意地悪したり、悪口を言うから」という。いつのことだと聞くと「今よ!なんでそんなこというの!あんたはひどいわ。あきれるわ」といきなり私は大悪人になっている。ここは家じゃなくて病院だよというと、「誰が病院に?あんたおかしいわ」とさらに続ける。肩を叩いて「周りを見てごらん。病院でみんなと一緒にご飯を食べてるよ」と言うとやっと周りを見渡してぽかんとしている。

少し事情が飲み込めてきた。彼女はなにかをきっかけにして、半分眠った状態になっているのだと思われる。今までこういう状態をたんに妄想と片づけていたがもう少し身体的な条件に近いところでこうなっていることがわかったように思えた。これはちょっとした発見だった。昨日も食事中にそうなったとき、試しに瞬間目が覚めるようなきっかけを与えて違うことに注意が集中するようにしたら、すぐに復帰した。やったことは単純で肩をポンと叩き小さく鋭く「アッ!」っと違うところに視線を移したら、それにすぐに反応して私の視線の先を見た。その後は何事もなかったように食事に集中できた。

夢の中での私はなぜいつも不機嫌な思いにさせる存在なのかということは問題として残るものの(苦笑)、今までもこういう事はわかっていたはずなのに、なぜ今さら気がついたのかというと、それは今まではきっと解釈の世界で格闘していたからに違いない。だから、目の前の実態と重ならなかったのだ。
たくさんのことが悩みの種で時間と労力を費やしてきた割りにはあまりにもささやかな発見だが、まあそういうものだろう。器質に拠るもの幻想に拠るものという腑分けは細分化すればするほどいずれ破綻すると思うし分断線を追求するだけの作業かもしれないが、私にとってはこんな風に<異常>の仮面を剥がして極小化していくか、私も含めてすべての人が<異常>だと言い切る以外に私が考える介護生活を生き延びられないと思っている。もちろん、私のような立場は進行性の脳障害を負われている方の介護には無効であるだろうことは承知している。

あいもかわらず蛸壺の中だがいずれ水面に出てなにごとかを語れる日が来るかもしれないし、そのまま水面下で一生を終えるかもしれないが今のところそういうことは私にとって重要課題ではない。
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胃ろうを閉じた 経過報告14 [介護と日常]

ブログの更新をかまけているうちにもう四月に入った。雪が降ったり、雨が続いたり安定しない日が続いているが、それでも市内の桜はかなり咲き始めている。木屋町沿いの桜はこの週末に満開になるだろうし、鴨川沿いの桜も来週半ばには見頃になるのではないだろうか。
妻の様子だが転院後一ヶ月が過ぎ、病院から評価と計画書が出た。

認知機能障害: HDS-R(改訂 長谷川式簡易知能評価スケール)3/40 MMSE(認知機能検査)11/30

(※重度の認知症の判定だが面白いことにMMSEは過去最高点である。認知機能と意識は怪我をする前とほぼ同程度の状態を維持している。)

運動障害:BRS(右):上肢Ⅴ、手指Ⅵ、下肢Ⅱ〜Ⅲ

(※麻痺が出た右半身だが、手の方はある日救急病院のベッドで突然動かすようになってからずいぶん回復した。転院してから箸も使えるようになり、今ではこぼしたりする失敗も格段に減ってきている。これはまだ回復する余地ありと思える。右足の方は評価のⅡ〜Ⅲのレベルがどのレベルを指しているのかわからないが、ほとんど動かせない。ただし、わずかに筋肉が反応しているのはわかる。)

感覚障害:精査困難

(※これは、まあ話が通じないので仕方あるまい(苦笑)。)

筋力低下:握力:右9.0kg 左9.6kg
     MMT:上肢 右4 左3+〜4 下肢右2 左4

(※麻痺が残る右手の握力が記録出来たことが驚き。左の方は悲しいまでの低下。だいたい左右35㎏ほどあった。これは職人さんだったせい。土をこねたり揉んだりはかなりの力仕事だったのだろう。ちなみに私はほんの6年前には握力右70㎏ 左68㎏あったが今年測ったときには右45㎏ 左42㎏しかなかった。50㎏を切ったのがショックだった。ま、これは関係ない話ですが(^^ゞ)

基本動作 寝返り   :一部介助
     起き上がり :一部介助
     坐位    :一部介助
     立ち上がり :一部介助
     立位    :一部介助

(※ようするに、手助けすればなんとかその姿勢をとることが出来るということ。)

短期目標
<理学療法>右下肢支持性向上、筋力向上、立位安定性向上、基本動作能力向上
<作業療法>右上肢の随意性向上、筋力向上、認知機能の向上
<言語聴覚療法>明瞭度、声量の向上、嚥下能力の維持向上
具体的アプローチ
<理学療法>神経筋促通、筋力、立位・歩行 耐久性訓練実施
<作業療法>神経筋再教育訓練、筋力増強訓練、認知訓練
<言語聴覚療法>発声、構音訓練、口腔機能訓練

日常生活動作 食事        5点(一部介助)
       移乗        
        座れるが移れない 5点(坐位可)
       整容        0点(全介助)
       トイレ動作     5点(一部介助)
       入浴        0点(全介助)
       平地歩行      
        車椅子操作が可能 0点(全介助)
       階段        0点(全介助)
       更衣        5点(一部介助)
       排便管理      0点(全介助)
       排尿管理      0点(全介助)
       合計(0〜100)  20点

(※ここの評価が退院後の二人の生活と私を規定する重要項目。うーん、このままだと下手をすると寝たきりにさせてしまって褥瘡とかの心配をしなければならないような生活になってしまう。世話をしながら元気になる方法というやつを発見しなくてはいけないなあ。寄合所みたいなのを始めようかな・・・)

コミュニケーション その場のやりとりはだいたい可能だが、辻褄の合わないこともあり
活動度(安静度とその理由、活動時のリスクについて) 発動性低下しているが、坐位時など転倒のリスクあり

短期目標
<理学療法・作業療法>食事動作、排泄動作の介助量軽減
<言語聴覚療法>コミュニケーション能力の向上、安全な食事摂取
具体的アプローチ
<理学療法・作業療法>食事動作訓練、排泄動作訓練を行います。
<理学療法・作業療法>コミュニケーション訓練、口腔機能訓練を行います。

(※ありゃりゃ、ここでは途端に威勢がなくなってずいぶん控え目になってる(笑)。)

目標 動作への発動性向上 基本動作など軽介助でムラなくできる
本人・家族の希望 少しでも歩けたら嬉しい

(※この希望には泣ける。本人が問いかけの都度答えているそうだ。通路の扉が少しだけだが開いている。)

リハビリテーション終了の目安・時期 一ヶ月後検討

(※一ヶ月の猶予が与えられた。この猶予は希望を引き出せるかどうかだが、期待はしていないので現状のままでもがっかりはしない。むしろ本人が無力感や諦めをもたないかが心配。)

というわけで、入院が継続する。4月1日、胃ろうを塞ぐ処置が行われた。また一歩回復に向けて前進である。残念ながら桜の季節に帰宅という希望は叶えられなかったが病院の近所の桜を見に行こうと思う。もう少し暖かくなって欲しいし、ぐずついた天気も回復して欲しいなあ。
そろそろ退院に備えていろんな準備のための心づもりを始めなければならない。覚悟はとうにしている。とはいえ、当面は今のままでどうやって間に合わせるかが主たる課題となる。

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経過報告13 [介護と日常]

病院の食事時はまさに戦争である。50名ほどの入院患者に対してスタッフは8人ほど。食事全介助の人、見守りが必要な人、動けない人、認知症の人、自立している人等々。
スタッフが充実しているとはいえ、患者一人に一人の看護婦、看護士、介護福祉士さんたちがつけるはずもなく、一人が何人も対応しなくてはならない。それぞれまさに獅子奮迅の戦いぶりである。最初の一陣の世話がだいたいのところ片づくとさらに重症の第二陣が入場してくる。この人達は人数は少ないが食事介助により注意が必要な人たちのようだ。おそらく嚥下障害などがあるのだと思う。だから、この第二陣にはそれぞれに付きっきりで食事介助をする。

妻が食事をするテーブルは8人。全部女性で、お年寄りグループである。妻を含めて6人は入院以来固定メンバーだが、お隣さんは4日ほど前にいなくなった。聞けば三ヶ月が過ぎて上の階の療養病棟に移ったらしい。階を隔てたとたんに忽然と消えたように感じる。自由に動ける状態ではなかったので彼女が下の階に顔を出すことはない。このおばあさんは、周りとも良く話をしていたし食事中にも妻のことを気遣ってくれた。ただ、認知症がかなりすすんでいるようで彼女自身それを打ち消すように頑張っているのが痛々しかった。驚いたことがあった。あまり身内の方は見えなかったがたまたま顔を見せている時に出会った。嫁といった雰囲気の人だった。その人もかなりの年齢で私の妻と同じくらいに見えたのだが、この人に対するおばあさんのきつさは半端ではなかった。なにか世話を焼こうとすると実に激しい拒否と手厳しい叱責をする。あまり顔を見せない理由と退院ではなく療養病棟に移った理由がなんとなく理解できた。いつも正面に座っていたおばあさんは席替えでちょっと離れたテーブルに移った。

入れ替わりに隣りと正面に最強のメンバーが加わった。正面に座ったのは、食事中大声を上げるおばあさん。大声を上げるのは決まって怒っているのである。しかもその相手はご主人だ。ご主人がいない時は愛想も良く、食事中も静かなのだがご主人が来て食事の介助を始めるとほとんどヒステリーのようになってご主人のすることなすこと大声で怒るのである。今日はご主人が来て食事介助をはじめると案の定気に入らなくて怒り始めた。ご主人がスプーンで食べ物を口に運ぼうとすると「ウワーン!」と言って怒る。食べたいものが違うようだった。次に運ぶとまた怒る。それも違うようだった。
妻は目を白黒させている。妻の席は端っこだから私とご主人は並んで座ってそれぞれ食事介助するのだが、ご主人は奥さんが怒るたびに周囲に申し訳なさそうに体を縮めている。怒っている最中に私が大丈夫ですかと声をかけると奥さんの方は愛想笑いと亭主に対する怒りでほとんど泣き笑いのような顔になってありがとう(といっても言葉になっていないが)と答えてくれた。半身麻痺と失語症で言葉が上手く話せない。だが意識はしっかりしている。この夫婦にいったいなにがあったのだろうとちょっとした興味が湧いてくる。
お隣は新しい患者さん。おそらくもう90に届くのではないかと思われるお年寄りで小柄なおばあさんだが、ごはんをほとんど食べないし自分の食膳にあるごはんやおかずを隣りの妻に食べさそうとする。その反対隣りは入院患者中最高齢の97才のおばあさん。この方は食欲もありしっかりしている。新しい患者さんに食べないと元気にならないよと声をかけるのだが、それを受けて玉突きのように関心は妻に向かう。妻のごはんが少なくなってくると自分が手をつけていないごはんを妻の器に入れようとしてくれたり、おかずの皿を妻の前に置く。妻がそのおばあさんの手をとって、自分が食べないとお腹が空くよと声をかけるのだが妻の声も小さくて聞こえているようには思えないし、そのおばあさんの声もまた蚊の泣くようなか細い声でなにを喋っているのか聞き取れない。新入りのおばあさんはあまりに妻にかまうので看護婦さんに見咎められて席を移動してしまった。妻は混乱しつつも自分の食事は全部食べた。前のおばあさんも早めに退席した後、妻は小さい声をさらに細めて「みんな、たいへんやな」とつぶやいた。

人はあまりに多くのことに気配りをしなくてはならなくなった時、行動の目的が最後まで達成されることは少ない。つまりあらゆる事はできないということだ。逆にいえばひとつのことをやろうとすれば他を放棄することによってでしか目的を達成できない。食事時の患者さんの要望は同時多発的だ。したがってしばらく取り残される人も出てくる。元気で働き者の看護婦さんがいる。彼女はあらゆる要望にすべて応えようとするあまり、順番に最初の要望から忘れていくような人だが常に一生懸命で患者さんからも好かれているようである。割合良くいるタイプの人だなあと思って見ていた。
その看護婦さんが第一陣の嵐が過ぎた後、病室から車椅子で大柄なおじいさんを食堂に連れてきた。だが、どうもおじいさんが元気がなさそうなのでその看護婦さんは元気を出してもらうためにおじいさんの好きらしい歌を耳元で歌い始めたのだ。それがまたすばらしい美声で上手!なのに驚いた。食事の後、部屋に戻らずに食堂でのんびりしていた私と妻はその歌声を聴いて顔を見合わせた。私はもちろん冗談だったが妻に「あんた、かてる?」と聞いた。すると妻は「負ける」と答えて笑った。

二週間も過ぎると他の患者さんから良く声をかけられるようになった。皆は私が息子なのか亭主なのか判断に迷っていたようで亭主だと聞くとやっと納得したように私のいない間の妻の様子を話してくれる。どうやら私にはあまり見せない「よそ行きの笑顔」でそれなりに周囲を和ませていることがわかった。リハビリ室で奥さんに出会うと、にっこり笑ってくれるので元気が出るのよとある患者さんは話しかけてきた。妻なりの適応をしているのだと知った。そういえば、一昨日の食事中自分の箸を止めてじっと見ている視線の先にいつも一人離れた壁の隅で食事をしている男性患者がいる。どうして彼がその席になったのか理由は知らない。妻にどうしてそんなに見ているの?と聞くと「ごはんをちゃんと食べているのかなと思って」とのこと。人にかまいたくなる程度に気持ちの方も回復してきているようだ。

幻覚はずっとつきまとっているようで、ベッドで横になったあとずっと天井の方というかあらぬ方向を見ているので何を見ているのか、なにが見えているのかを聞いたところふだんあまり使うことがない言葉が返ってきた。
「きょたい」
きょたい?きょたいってなに?大きな人?
「虚無の虚、虚体」
虚体?また変わった言葉を使うね。どんな人?笑ってるのかな。
「虚体だから、表情もなにもない」(どうやらわかって言葉を使っているようだ)
よく出てくるの?
「そうやな。わりに最近出てくるな」
とのことだった。「脳の中の幽霊」という本のことをふと思い出したが、そう言われると私も表情のないのっぺらぼうの「虚体」に見つめられているような気配がしてちょっとゾワッとした。
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転院その後 経過12 [介護と日常]

先月2月19日に救急病院から回復期病院つまりリハビリ病院に転院した。
転院する日の朝準備をしていると、記事にも書いた家族と出会った。聞けばあちらも今日転院だという。家の近くの病院に転院するのだという。若いご主人は「頑張ってください」と言い、患者の父親は深々とお辞儀をした。私達はストレッチャーが廊下の曲がり角に消えるまで病室の前で見送った。

退院の準備が整って予約した介護タクシーが到着した。看護師詰め所にお礼の挨拶に行こうかと思い部屋を出ると出口で看護師さん達が並んで見送ってくれた。妻は嬉しそうに手を振って救急病院を後にした。
良い天気だった。御所を過ぎ比叡山を見ながら鴨川を越え、京大が見えると左折して少し北上すると新しい病院に着いた。
すぐに病室に案内されベッドに横になる。四人部屋だがゆったりした間取りでずいぶん広くなった。これならこの先付き添いを要求されても問題はなさそうだった。

入院以来二ヶ月ぶりに外の景色を見ながら遠出した妻は環境の変化にも動揺したのか疲れてベッドに横になるとすぐに寝始めた。私は寝ている間にこれからの生活のための準備を担当の看護師に聞きながら進めた。聞き取り調査の時に病院に対する要望を聞かれたので、なるべく拘束や眠剤、安定剤の類は使用しないで欲しい。問題が生じるようだと付き添いなども含めて対応する事を伝えた。

新しい主治医が午後になって病室に来た。若くて丸っこい女医だった。二週間様子を見てその後の治療方針、目標などを設定するとのこと。幻覚や幻聴の事を聞かれて、それらしいことは日常的にあるというとアリセプトは服用したことがあるかと聞かれた。それはないというとレビーかもしれないのでそれも含めて診断するという。とりあえず、今までの見立てではレビーやアルツハイマー型、また前方型ではない。脳血管性としか診断できないと言われていること。症状はそれらの特徴的な症状が全部現れることなどを伝えた。レビーならアリセプトがよく効くのだが前方型だと逆に良くないので、それらを含めて検討させてもらいますと主治医は言った。
私はここで、ひょっとしたらこの病院は「当たり」ではないかと思い始めた。リハビリ病院で認知症に詳しい医師に出会えるとは思っていなかったからだ。

一通りの準備が終わってから病棟を見てみた。1階が理学療法室、作業療法室などがあり、通所デイケアが併設されていた。二階と三階が病室で、各階の真ん中にダイニングと看護師詰め所が配置されている。大きな病院ではなく、それほど新しいわけではないが明るい。広めの廊下を歩き続ける人、テレビを見ている人、廊下の所々に配置された椅子に座ってなにかを考えている人、詰め所の前の椅子で新聞を読んでいる人、寝たきりの人の病室と千差万別だが入院患者はわりあい自由に生活を送っているように見える。椅子に座っている患者の横に看護師が座り他愛もないことなのか悩み相談なのか話し込んでいる。
そうこうしているうちに、理学療法の担当者が病室に来て妻を起こした。これも若い女性だった。彼女は妻に疲れていますか?少し調べさせてもらって良いですかと言いながらベッドに上がって妻の身体の反射とか反応を調べはじめた。そして入院してきていきなりではしんどいかもしれないけど、ちょっと一緒に1階の方でいろいろ動かしてみませんかと妻に言うと、妻は行ってもいいと答えたので新しい療養生活がいきなり始まった。

まずは歩く訓練。手助けされて立ち上がりがやっと。腰をつかまれながら足を前に運ぶ練習。右足はまったく動かせない。左足は伸ばして立位を保つのがやっとという状態。それでも平行に置かれた手すりの間を二往復した。思わず拍手をすると嬉しそうに笑顔を見せた。こうして最初の約20分の運動が終わった。PT(理学療法士)の見立ては、動かない右足にわずかに反応があるので、歩けるようになると言えないけれども、ここを手がかりにして進めたいとのこと。最後にこう妻に問いかけた。「どうしたいですか?」妻は聞き取れないような小さな声で(まだ大きな声では話せない)「歩きたい」と答えた。

さて、今日からはや三月、弥生。転院してから一週間が過ぎた。目立って大きな進展はない。四日目に車椅子から前のめりにゴロンと転がり落ちるという一瞬ハッとする出来事があったが問題なく生活している。食事の時、こぼしながらもスプーンで口に運んでいたが四日目のこと。テーブルに置いてある箸を取ろうとするので渡すと、箸を使っておかずをほぐし、それをつまんで口に運んで驚いた。箸先を上手く揃えられなかったりするものの、右手の方は日常生活の範囲でかなり使えるようになる可能性を示した。

生活にメリハリをつけるために朝起きると運動しやすい衣服に着替えて寝る時にパジャマに着替える。食事は病室を出て他の患者達と一緒に食べる。この病院には看護師と理学療法士、作業療法士などとともに入院生活を支える介護福祉士たちがいる。これほどスタッフが充実している病院ははじめてだ。それでも食事時は戦争のような忙しさとなる。そんな食事時のこと。テーブルの向かいに座る患者さんは食事全介助が必要な人である。妻は頭に帽子をかぶって病室を出て食事のテーブルに着いた。私と並ぶように座って食事の介助に就いた若い男の介護福祉士が声をかけてきた。
「その帽子はNさんが編まれた帽子ですよね」と。私はそうだと答えながらギョッとした。なんで知ってるの?と聞けば妻が通っているデイケアに一年いたことがあって、妻のことはもちろん知っていたのだった。私の家にも送っていったことがあると聞いて驚いた。通っている診療所の通所リハビリもそういえば民医連だったと思い出して、ここにいるのは移動とか転勤とかなのかと聞くと、そうだとのこと。思わぬ出会いだった。

これからのリハビリ生活は遅々として改善しない症状と向き合いつつ、地道でそれなりに苦痛を伴う基礎的な運動の繰り返しだけがその先の生活を決定する。すでに妻はほんとうに足が動くようになるのか不安をもらしはじめている。私にとっては妻のそんな言葉を聞くことそのものが希望であったり喜びであるのだが、勝手に喜んでばかりはいられない。妻の不安を聞きながらモチベーションを落とさないように励ましていく。目的が明確になる生活は久しぶりのことだ。家で日常生活に埋没しているとなかなかこうはならない。

私自身の生活にふれると、妻が入院してからというもの炊事に対する関心が一気に失せた。子供達にお父さんはさいきん料理する気がなくなってるんじゃないのと言われる。
事故の前までは漬け物に凝っていて各種の漬け物に挑んだ。白菜漬けやたくあんは塩加減を失敗したり、ダイコンは事故を挟んだおかげで干しすぎたりとかで成功しなかった。が、事故前につくったキムチだけは上出来だった。仙台の従姉妹からいただいたリンゴをすり下ろして加えたり、韓国食材店のオンマにアドバイスをもらったことも大きかった。

精神的には鬱症的な症状にずっと悩まされている。甲状腺機能低下症の薬を飲まないとなかなか外に出かけられない。いちばん苦労しているのは、何事に対しても意欲がわかないこと。集中力がないこと。先日ほぼ二年ぶりにパソコンを使って病院に提出する家の間取り図や報告書を作った。もうこんな作業は出来ないかと思っていたが、なんとか最後まで作ることが出来てホッとしている。出来映えは、ろくなものではなかったけど(苦笑)。ただ待つだけではこの状態を改善できないだろうとすでにわかってはいるのだが、どうすれば良いのかがわからない。逆にどんどん悪くなっているのではないかと不安になる。オリンピックのことなど書いてみようかとも思ったがどうもそんな気になれない。自分的には深刻度が増している。
と、ちょっと締めくくりが暗くなってしまった。きっと雨が降り始めたせいだろう。
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