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ベランダの夏 [徒然]

いきなり暑くなりましたね。各地に被害をもたらした豪雨を運ぶ黒い雲の背後に、夏が待ちかまえていたようです。少し気が向いたので久しぶりにデジカメのシャッターを押してみました。お構いなしのスナップです。
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午前10時半。気温はすでに33度を超えていました。


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二度目の洗濯物があっという間に乾きはじめます。茄子の花、これからむかって来るであろう西日から逃げているようです。


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今年はじめて植えてみたキュウリと茄子。思った以上にたくさん収穫できて嬉しかった。


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鷹の爪は豊作でした。たくさん実をつけてくれました。すこし色づきはじめた実が見えます。
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台風一過 [徒然]

朝五時過ぎ、ゆさ〜と揺れはじめて目が覚めた。地震かなと思いつつ布団の中で様子を伺っていた。大きな揺れではなかったがかなり長い間揺れていたので、これは遠い地震だがかなり大きな地震ではあるまいかと布団から起き出してテレビをつけた。五時十三分だった。震度六弱の大きな地震があったことを確認した。早朝の大地震は阪神大震災を思い出す。明るくなるにつれて被害がわかりはじめるのもあの時とそっくりだ。いまでも覚えているのは阪神大震災の時、テレビで最初の被害は滋賀県でおばあさんが転倒して救急車で運ばれたというものだった。その後七時を過ぎた頃、ヘリコプターでの映像に愕然とした。
今回の地震は東海地震とは関係がないとのことで、マグニチュード8クラスの地震が来た場合には壊滅的な被害をもたらすのだなとあらためて思わされた。台風の影響による雨の被害が大変なことになっている。自然災害に対する常識的な感覚を一度捨て去って備える必要があるのだろう。

台風といえば田舎のことを思い出す。家の前の海岸線に教科書にも載った日本で一番高くて大きな堤防(当時)が完成したとき、学校から見学に行った。だが次の台風の時その堤防はもろくも崩れ一部落がほとんど消滅した。そこにはお好み焼き屋さん、貸本屋さんなどようするに日常の生活が詰まっていた。波に洗われたそこは瓦礫と砂に覆われ、その平坦さとその狭さに驚いた。救助活動をしていた大人たちの間から倒壊してほとんど埋まった家から身体半分出た屍体を初めて見たときの衝撃は忘れない。
台風の記憶はほかにもいくらでもある。なかには心にしまい込んだ台風の記憶もある。あの時の共通の記憶の住人であるはずの子供だったみなはどうしているのだろうか。

昔、山奥の魚梁瀬というところから切り出された木材は森林鉄道をつかって私の町の貯木場に集積され、海に突き出たコンクリートでできた桟橋から海に落とされ、少し沖に待機する運搬船に積まれ、大阪方面に出荷されていた。トロッコに積まれた木材を海に落とすときの水しぶきの勇壮さは心ときめいた。海に落とした木材は、作業する人が海に飛び込んで(それもふんどし姿だった)集め、船から下げられたワイヤーをもって潜ってから束ねていた。この桟橋も台風でなんどか崩れた。木材はやがてダムができダムと共にできた道路をつかって運ばれるようになり、森林鉄道の役割は終わった。この桟橋と桟橋につながる貯木場はグラウンドにもなっていてここにまつわる記憶は多い。中学生の時、台風で破壊された桟橋の残骸を描いてたった一度だけ絵で褒められたことがある。しかし、それは学校の課題ではなく若い新任の教師に無理矢理教えられた空手と同様に描かされた油絵だった。学校での成績は語るも恥ずかしいくらいさんざんだった。教師が転任した途端、絵は描かなくなった。
森林鉄道には芥川龍之介の小説そのままのような記憶がある。虹の橋が出ているところまで線路を伝って見に行こうとした。歩いても歩いても目的地に着かず、どこが目的なのかもわからなくなった頃トロッコがやってきて私は拾われた。それでやっと帰ってこれた。つっかい棒でブレーキをかけると大きな音と火花が車輪から出るのをトロッコにしがみつきながら見ていた。

メールの受信はできるのに送信ができない事に気がついたのは一週間ぐらい前のこと。最初はさしたる用事もなかったので気にしていなかったが昨日メールを送信しようとしてそのトラブルがまだ続いているのに気がついて焦った。メールソフトを見直しても設定を一からやり直しても送信できない。さんざん調べたあげくやっと解決策を見つけた。ポート25を528に変えろというものだった。なんのことかわからないが、セキュリティーのためにそうなったということがソネットのホームページに隠れていた。
だいたいこういうわからないトラブルに見舞われたときは練習菌さんに聞くとたいがい解決していたのだが、今回そうしようと思ってもメールの送信ができないのだから尋ねようがなく(菌さんは携帯をもっていない)、苦労した。たった今ポートを528に設定し直すと無事送信ができるようになった。めでたしめでたし。

今日は曇りという予報だったが、青空がでている。気温もどんどん高くなっている。これからたまった洗濯物を片付けることにしよう。
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甲子園・伝説の名勝負〜星稜vs箕島から30年を見て [徒然]

自分がそのスポーツに属していなくても高校野球は熱中して見ていた。
記憶は怪しくなってきているが、浪商の尾崎や法政二高の柴田の活躍は覚えているし(ラジオだったような気がする)、三沢高校と松山商の引き分け再試合や、雨の中、対銚子戦での江川の押し出し、高校野球の常識を打ち破るトレーニングをした(と評価された)蔦監督率いる徳島・池田高校の優勝や、その池田を破って優勝した一年生ピッチャー桑田、清原のKKコンビを擁するPL学園等々。もちろん怪しくなり始めた記憶でも石川代表星陵高校と和歌山代表簑島高校の延長18回の戦いは今でもはっきり覚えている。

だが好きだった高校野球も最近はすっかり見なくなった。きっかけははっきりしている。
それは高知の明徳義塾高校が、石川星陵高校四番であった松井秀喜を5打席連続敬遠をしてからだ。この5打席連続敬遠は当時社会的にも大きな話題となった。当時の私にとって、この監督が指示した連続敬遠は許し難いものだった。
太田幸司や、バンビこと坂本選手、荒木大輔など甲子園アイドルと騒がれた選手たちはいた。だが、それでも高校野球は高校野球だった。比喩的に語れば戦後を引きずっていた。監督を頂点とした絶対的な服従体制、従順、訓練、忍耐、自己犠牲etc。この高校野球の戦後に明確な線を引いたのが、徳島の蔦監督率いる池田高校の登場だった。そしてPLの桑田、清原の登場で決定的に戦後を離脱したと思った。個の解放によるスポーツへの通路が開けたと考えたのだ(あくまでも比喩的にである)。
ところが、明徳義塾の監督はこうした流れを一気に戦後の枠組みの中に引き戻した。高校野球は教育の名を借りた抑圧装置であることを再び目の前で再現して見せたのだ。当時の私はそんな風に思っていたのだった。そしてそれは許し難いと思った。当時の怒りの正当性を根拠づけるとしたら敬遠された松井秀喜の姿は記憶に残っているのに敬遠した投手のことはまるで思い出せないではないかと。監督が選手から野球を奪っていたのだと。
だけどほんとうはそんなことはどうでもよいことだと今は思う。そんなせこいことをするなよという程度の声は上げたとしてもそれ以上でも以下でもない話だと今は言える。本音と建て前を見事に反転することでスポーツの持つ残酷さを隠しているのに、この監督はつい本音を露出させてしまったにすぎない。スポーツのルールは社会のルールに対抗することはできなかったのだ。私の怒りは、本意ではないがこの社会のルールを補強していたわけだ。

余暇や気晴らしとは少しずらせて考える。競技スポーツは、その本来の姿が差別的であり、階級的であり、排他的であり、激烈な競争を前提にすることによって成立している。対立する相手との間に覆し得ない差別化が現実として現れたときにこそスポーツはその価値を一方に与えるのであり、決定的に奪うのである。その決定的な競争と対立を再生産し継続可能とするためにルールを設け、この継続的な対立が社会を危うくしないような仕掛としてリスタート可能な独自の精神的領域を準備する。それはスポーツマンシップであり、ノーサイドやフェアプレイである。

競技スポーツの生の実態は、耐えられるもの、受け入れられるもの、目的化できるものだけが生き残れる世界である。功成り名を遂げた現役スポーツ選手は、仲間や対戦相手を蹴落とした結果の存在だ。だがその残酷な目的達成に向けた剥きだしのひたむきさが美しさを時に表現し、なにものにも代え難い感動を与える。唯一人(チーム)の勝者とその他大勢の敗者の存在が同一平面で俯瞰できること。物語を第三者にゆだねること。これがスポーツの感動を支える基本構造だ。例えば100メートルで驚異的な世界記録を作ったボルトがたった一人で走りこの記録を作っていたとしたら、感動が驚きを超えることはあるまい。この、スポーツがもつ宿命的な構図は、容易に光と影の世界を際立たせる。

ようするにスポーツってそんなに良い世界じゃないと言いたいわけで、スポーツ選手の持つ爽やかさなんて一皮剥けばろくなもんじゃないという程度の評価しかしない自分がいるのは事実である。だけど、野球もサッカーも水泳もバレーも、そしてボクシングや柔道も観るのを止められない。

前置きが長くなった。8月3日深夜、NHKアーカイブス「甲子園・伝説の名勝負 星稜vs箕島から30年」を見た。この時期になると繰り返し語られる名勝負だが30年後の選手たちを見ながら涙が出てきた。彼らは語り継がれる物語の、与えた感動の大きさから遠い別の物語の住人だった。彼らはずっとあの勝負の意味を問い続ける人生を送っていた。まるであの時から未来を奪われたようにである。意外だった。
あの試合の球審を務めた永野さんが番組に出ていた。「白球有情」の人である。そして試合をふり返り「この試合には勝敗がついてほしくないと思った」と語ったとき、ハッとした。甲子園で引き分け再試合はなんどかある。だがあの試合にそれは許されなかった。誰に?
誰かがあの絶体絶命の展開で二度もホームランで追いつくなんてまるで野球の神様が作ったような試合だと言った。逆だと思った。試合を観ていたほとんどの観客が主審であった永野さんの気持ちと同じ気持ちを持ち、望んだ瞬間があったと思う。観客は結果を望む欲望を放棄しようとした。それを野球の神が許さなかったのだ。なぜ?観客を欲望の世界に閉じこめておくためである。野球を(スポーツを)終わらせないために。

永野さんもまた問いに囚われた人だった。九回二死、甲子園の優勝旗が目に入った時におかした小さなそして決定的なミス。もちろん小さなミスを決定的にしたのはその後の結果である。延長戦に入り逆転負け。甲子園の優勝は果たせなかった。永野さんは大学社会人として野球を続けたが、審判として甲子園に再び立つ。1979年8月16日永野さんは簑島-星陵戦の球審としてグラウンドにいた。

「昭和三十九年の高校野球大会で初めて高野連から審判を依頼された永野元玄(もとはる-引用者注)は、以来、高校野球大会のたびに勤務先の住友金属鹿島総務部から休みをもらい甲子園に来ている。彼には彼自身が現役選手であったころの甲子園野球に強烈な思い出がある。1953(昭和28)年、永野は土佐高校の捕手として甲子園のグラウンドを踏み、決勝戦で松山商業と対戦した。試合は土佐高校のリードで進んだが、粘る松山商業は最終回同点に追いつき、延長13回に逆転してしまった。
 《その同点に追いつかれた9回なんですが、同点打を放った松山商の空谷君は、その直前に2-0と追い込まれているんです。そして3ストライク目の球がチップして私のミットにおさまりかけた。捕っていれば三振、ゲームセット。土佐高の優勝です。そのチップを、私は落球してしまったんです。
 星陵の加藤君が、16回の裏にファールボールを落球しました。私自身の体験とオーバーラップしてしまいました。なんと不運なんだろうと思わざるをえませんでした。》中略

 両チームの選手たちがホームプレートをはさんで整列した時、永野主審は他の審判に同意を求めるようにいった。《このゲームに限り、選手同士、握手をするのを認めよう》。本来、それは妙な流行になるという理由で禁止されていることだった。
 選手たちが、それぞれのベンチに帰って行くと、永野主審は、一塁側ダグアウト横の出口のところで堅田を待っていた。三塁側から引き上げてくる堅田を見つけると、この試合で使っていたボールを一個、堅田に手渡した。
 堅田投手は帽子をとって、それを無言で受け取った。その夏に、カクテル光線の下で演じられたドラマはそんな風に終わったわけだった。」
八月のカクテル光線ー山際淳司著・「スローカーブを、もう一球」所収 角川文庫 昭和六十年二月十日 初版発行
平成二年十二月十日 二十版

スローカーブを、もう一球 (角川文庫 (5962))

山際淳司は、「江夏の21球」で一躍脚光を浴びたノンフィクションライターだった。そして95年に47歳でなくなっている。作家の重松清はこの山際淳司の登場をもって、スポーツノンフィクションの世界は、”以前/以降”に分けられるのではないかと書いている。山際淳司はスポーツの世界における光と影を、カメラの視線を媒介させることによって書き手の推察や解釈に過ぎない内面の世界に数字以外の”客観性”という表現手法を仮装し、スポーツ世界の内面を美談や過剰な湿っぽさからすくいだしたといわれる。それはたしかに新しい手法だった。無機的な視線が内面をえぐり出すのではなく、無機的な視線がたえず内面と絡みあうことによって、光と影を浮かび上がらせる。だから、彼が獲得した手法は聞き出した事実のエピソード重ねるだけではなく新たなエピソードも発見できた。場面場面を人生や世相に重ねた寺山修司のノンフィクションの世界ではなかった。彼はカメラのファインダーを覗くことによって自分の直接の視線を対象から遠ざける。私自身は画面からどんどん自分を消し去っていくことによって対象を浮かび上がらせようとする山際の手法はあまり好きではない。
ところで、引用した「八月のカクテル光線」だが延長戦になった試合を照らしたカクテル光線を比喩として、この試合の光と影を浮かび上がらせようとしたこの作品は微妙に輪郭がぼやけている。焦点が定まらないのだ。まるで金網越しにオートフォーカスカメラを向けたように、核心の周りを彷徨している。山際は、この試合を何度もファインダーから目を離して直接視ようとしているのだがそれでも捉えきれないためらいが作品に滲み出ている。山際も、この試合がその後なぜ選手たちをまるで囚人のように捕らえて離さなかったのかを描ききれていないのだ。山際は早く死にすぎた。彼は30年後の選手を書かなければいけなかった。

永野さんはアナウンサーやゲストの三平の使い古された高校野球賛辞に、控え目に同意しつつ30年後の選手たちと同様の淡い影を背負っているようにみえた。試合に勝っても「あの時ホームランを打たなければ今の現実は変わっていたはずだ」と語る選手や、ファールを取り損ねて勝利を逃し、その後務めた銀行も辞めて建築会社の倉庫に務める選手、プロでそれなりの成績を残した後も独立リーグの運営に奔走する選手等々。今もあの試合の意味を問い続けるあの時の今の彼らの姿がきっと永野さんには見えているのではないかと思われた。

甲子園のグランドに審判として戻った堅田は、永野さんからもらったボールを見ながら「少しずつ永野さんが言いたかった意味がわかるような気がしてきた」と言っていたが、私が印象的だったのは選手として甲子園を狙う自分の子供の応援に行き、スタンドでインタビューに答えながら言葉を詰まらせる場面だった。堅田はどうしてあそこで思わず涙ぐみそうになったのだろう。あのシーンは子供の成長に対する単純な喜びではなかった。言いようのない悲しみにも似た慟哭への衝動が彼を突き動かしているように見えた。わからない。
私は永野さんや堅田の姿に手塚治虫の漫画火の鳥に出てくる八百比丘尼の話を思いだし、かさね合わせた。あれはたしか残酷な父の病気を治すと民が苦しむというのでどんな病気でも治す尼を殺してしまい、自分がその尼になりすますのだが何度でも自分を殺しに来る自分が八百比丘尼となるという因果応報の話だった。八百比丘尼の話に通じるものがあるとしたら、尼(自分)ではなく父を(相手を)殺しきれなかった優しさだろうか。
わからない。
山際淳司は八月のカクテル光線で「勝利と敗北は、どこかで分かれていかなければならない」と書いた。世の中には声にならない膨大な敗北が抱える沈黙をさらに封じ込めるかのような勝利への言葉が満ちあふれている。そんな中で数少ない、勝利を無化する敗北の物語がこの試合だったような気がしてきた。

永野さんに初めてお目にかかったとき無理をいって色紙を書いていただいた。そこには「白球有情」と書かれている。その言葉に込められたものを少しだけ理解したように思った。

さて、記事を書き始めて三日経った。いつもの事ながら話があっちこっちと違うところにとんだり、眠くて翌日時間を見つけて続きにかかると、ぜんぜん前とつながらなかったり(笑)。おかげで、思い出したこともあり別の記事もできた。ただ、自序のような事を書き始めるとお終いだなという気もあり、少し考えてから後日アップしたい。

今年の夏、高知は明徳を破った高知高校が出場する。記事をきっかけに久しぶりに高校野球を見てみたくなった。この時期、私の住む界隈は陶器祭りで落ち着かなくなる。そして大文字があり夏の終わりが始まる。曇り空を見上げながら、今年の夏は短い夏になるのだろうかと考えた。

※この番組の再放送があるようだ。
  1. 番組タイトル:NHKアーカイブス特集
  2. サブタイトル:「甲子園・伝説の名勝負〜星稜vs箕島から30年」
  3. 放映予定日時
  4. ◎ NHK総合テレビ 8月7日(金) 午前0時10分〜1時30分(80分間)(8月6日の深夜放送です)

※8月7日少し記事修正
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京都雑感 3 [徒然]

昨日記事を書いたのは、妻をトイレに起こした後だった。その後朝食の支度をして9時前に妻を起こそうとしたのだが、もう少し寝かせて欲しいと言われたので、そのままにして10時過ぎに起こしに行って驚いた。最近にはなかった記録的なお漏らしをしていたのだった。胸から下がびっしょりと濡れ、最近シーツの下に敷いているお漏らしシートの範囲を超えて布団までぬれている。とんでもない量のお漏らしだった。
これは以前尿崩症を疑ったときに匹敵するかそれ以上の量で、なんだか気のせいか顔がほっそりしたように見えるほどだった。前夜お風呂に入ったばかりだったが、仕方なくその場で身につけているものを全部脱がせて、風呂場まで抱えていきシャワーで身体を洗った。私の布団にもう一度寝かせてから、布団を干し、シーツや衣類の洗濯をして妻のところに戻ると、お腹がすいたという。よしきたほいとばかり、抱え起こして食事をさせると、軽快にたいらげて自分で椅子から立ち居間に移動してテレビの前に座った。なんだか体の中の悪いものが出たように、ちょっとキリッとした表情に戻っている。その後は自分で這って行って布団に横になったのだが、これもここ数日の中ではなかった能動的な行動で、少し復活の兆しを自分で見つけたのではないかと期待している。

さて、六年前に叔父が亡くなった時、住んでいた家を整理して、そこそこの量の本を家に持ち帰った。筑摩書房版の世界文学全集や日本文学全集、それに平凡社の東洋文庫等々。その持ち帰った中に昭和39年発行の中公新書、林屋辰三郎の「町衆」があった。その序文を読んで古くて新しい問題として京都の現状を嘆いているのを発見して、笑った記憶がある。いま本棚からその本を取り出し、序文を少し引いてみよう。

ー略 京都ではいま、「応仁の乱いらいの破壊が行われている」という警句がきかれる。しかしそれは京都だけのことではない。全国的に都市・農村の近代化、観光・産業の開発といった気運のもとに、新しい施設や道路の建設がすすめられ、それらが日本の歴史的風致や文化財の破壊を、つぎつぎにともなっているのである。とくに京都の変貌はいちじるしく、最近では名勝双ヶ岡(ならびがおか)の売却問題や、史跡御土井(おどい)の破壊、さらに駅頭の京都タワー建設などは、京都の歴史性や芸術性をまったく無視したものだと思う。こうした現在の破壊を見るにつけても、この千年の古都を今日まで伝えつづけてきた祖先たちのことが思われてならない。中略ー

ー略 それとともに、京都のみならず全国的な問題として、伝統行事や祭礼など無形文化財の廃絶あるいは歪曲という現象がある。祇園祭のめぐり来るごとに、それはいつも新聞の新しい話題として提供されている。祇園会ばかりではない、大阪の天神祭もまた同様であるが、かつて祭礼をささえた信仰の力は、もはやその影をうすくしてしまい、ようやく観光資源として役立つもののみが、それ向きに変改を加えられてたくみに利用されているのである。中略ー

林屋辰三郎が京都の、いや日本の変貌の中で「じっとしていられぬ気持ち」に駆り立てられて(と自分で記している)この本を書いたのが43年前のこと。京都タワーはすでに京都の表玄関を飾る象徴となり(京都の人はとても嫌うが)、さらに物議を醸した京都駅もさしたる違和感も無しに受け入れられているようだ。だが、林屋辰三郎が今の京都を見て果たして絶句するのか、あるいは地域的共同体の解体は歴史の必然なのかを改めて問い直すのかはわからない。

衰退する都市の実感として京都雑感を書いてみたが、単なる実感だけをたよりに無責任なことを書いても仕方がないと思い、京都市創世推進室から出されているものを見てみた。ごく一部なのだが印刷すると100ページは優に超え、厚さは2センチほどにもなった。京都創成推進室は、「国家戦略としての京都創成の提言」に賛同して、提言の実現を応援する組織、京都創成百人委員会を組織し、その世話人代表に哲学者・梅原猛が就任している。ざっと目を通したのは「時を超え光り輝く京都の景観づくり審議会」最終答申と、「京都市基本構想」、あと京都市経済統計などの資料である。
思った通り、経済統計では観光消費額は付加価値を含めても京都市総生産の一割にも満たない。
最終答申と基本構想はさすがに当代の文化人、知識人などをかき集めてまとめられているだけに、私が心配するまでもなく京都の現状と問題点のほとんどが網羅されていた。

簡単な感想を。驚いたことに、この基本構想と最終答申の底流に流れているのは、京都の「敗北宣言」であった。京都が明治以降、かつてないほど病み、そして絶望的な変貌と解体のプロセスにあることを図らずも表明しているのである。京都「らしさ」(なにが?どこが?)は、あらゆる要素に分解され、悲鳴のように京都を形容する。そして遂には京都という都市が持ち得た自律的な時間性と文化性の再構築を国に委ねたのである。

「現代の大都市でもある歴史都市・京都には、こうした永い歳月の中で、三方の山々と鴨川、桂川などに代表される山紫水明と称せられる豊かな自然と、世界遺産を含む数多くの歴史的資産や風情ある町並みとが融合して、地域ごとに特色ある多様な景観が創り出され、それらが重なり合って全体として京都らしい景観がはぐくまれてきた。
このような京都の景観とは、本来、京都特有の自然環境の中で伝統として受け継がれてきた都の文化と町衆による生活文化とが色濃く映し出されているものであり、日々の暮らしや生業等都市の営みを通じて、京都独特の品格と風情が醸し出されてきたものである。また、時の移ろいとともに変化する町の佇まいや四季折々の彩りが京都の景観に奥深さを与えてきた。
このため京都の景観は、視覚的な眺めだけではなく、光、風、音、香りなど五感で感じられるもの全てが調和し、更には、背景に潜む永い歴史と人々の心の中に意識されてきた感性や心象も含めて捉えられ、永らく守るべきものとして認識されてきたのである。」序 〜時を超え光り輝く京都の景観づくりについて〜 より抜粋

なんと惨憺たる文章だろうか。これとは別に京都市基本構想は少し違う趣を持っている。それは市民に対する呼びかけの体裁を持ち、キーワードをいくつかあげて市民を鼓舞するところから始まっている。だが、ここで呼びかけられる市民は、いない。
例えば景観問題を施政者が条例などで規制しても解決しない。なぜなら様々な問題が関与しているからだ。条例で規制に反対するのはその規制地域に住んでいる人が多い。それは資産価値に直接影響するからである。こういう問題を包括し得ない施策は意味をなさない。土地の資産価値に匹敵する環境的価値が現実のものとして反映する仕組みこそが施政者に問われているものだと思う。

思うに、京都の人は景観や歴史にさほど関心がないというのが私の印象である。町家は、実際に住んでみるとわかるが非常に不便である。いくら、故人の知恵を力説されても、ウナギの寝床での炊事は不便なのだ。冬は寒いし夏は暑い。ずっと昔、冬期の室内温度が一番低い都市はどこかというデータを何かで見たことがあるが、京都が一番だった。どうりで北海道出身者が冬休みになると真っ先に京都は寒いからと言って帰省していたはずだ。
京都の人のプライドは、かつて京都が日本で最たる工業都市であったところにあるのではないかと思う。歴史や景観は生み出されるものに対するいわばレバレッジ的な(ブランド化?)意味しか持ち得ていなかったのではないだろうか。だから新しいものには寛容であると同時に古いものにしがみつきたくないという。京都の人は伝統的な町並みに世界的な建築家の意匠に富んだ建物が平然としかも忽然と建つのを良しとしてきたのだ。

だが、である。最近私の住む町内の人たちを見渡してもあまり元気がない。住民の高齢化に拍車がかかり、見事にドーナッツ化現象が起きている。京都だけではないだろうが、地区の学校も統廃合の話が具体的なスケジュールとなって聞こえてくる。次から次に町家は姿を消し、マンションが建ちはじめる。あるいは、建物が壊された敷地には小さな駐車場が時間稼ぎのようにあっという間に出現する。意外にも町内の人はマンションが建つことに拒否反応はない。新しい人が町に来ることを歓迎している風でもある。だが、それはある種の諦めにもにたため息を伴っている。
私にわかっていることは、マンションが建つたびにその地域にあった公共ではない公共的な空間が確実に失われていってしまうことだ。それは路地奥の小さな家が何軒か集合している玄関先の狭い空間に置かれたお地蔵さんであったり、小さく狭い軒先の間の通路であったり。そこは子供たちの格好の遊び場であったり、表通りから身を隠せるところでもあった。それが消失していくことは、追い打ちをかけるように地域そのものにダメージを与えているように思う。

最後に。東北に位置する比叡山から見る眺望と、西北に位置する愛宕山から見る眺望は京都の洛中・洛外を一望できる景観として素晴らしいものがある。御所を中心にして整然と並ぶ町並みに東側は高野川と鴨川が合流し、西には桂川が流れているのが見える。やがてそれは合流し淀川に注ぐはずだ。市中に点在する寺社や、山裾に鎮座する寺社もいっそう古都の趣を演出している。北白川や北山、そして岩倉の里から八瀬に至る道、山科の里、西の双ヶ岡や西陣の町並み、嵯峨野や宇多野まで、まさに京都盆地に築かれた都の姿に感慨を覚えたものだ。
が、ある時、桂の方から西山と呼ばれる山(小塩山)にバイクで登ったときのことである。眼下に見える京都を見て驚いたことがある。そこから見る京都は、比叡山から見る京都でも愛宕山から見る京都とも違った異相を見せていた。都から吐き出されたような形で、南に伏見から宇治、京田辺、山城に続く工業地帯と新興住宅街が茫洋と無定型に広がる姿だった。それは洛中に生息していると気づくことがない、まさに150万都市としての不気味な巨大都市、京都の姿だった。この時不意にここから見る京都の姿こそが、平安京を作った古代人の視線ではなかったかということと、やがて京の都は吐き出したものから飲み込まれるのではないかという奇妙な思いだった。


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京都雑感 2 [徒然]

一般的な京都人の印象

京都独特の言い回しなのか、妻が育った環境だけのことばなのかはわからないけれども、「たりぐるしい」ということばにも驚いたことがある。食事の時に妻が言った言葉だった。「ちょっとたりぐるしいことない?」
今は当たり前のように理解できるから、子供が使ってもごく自然に受け止められるが最初はなんのことかわからなかった。ようするにちょっとなにか足りないのではないかとという言い回しなのだ。

京都の人という印象で忘れがたい人が何人かいる。兄の友人で、一人特別な存在のような人がいた。この人が話すことは全てがメタファーのようで、何を言いたいのか私には皆目見当がつかなかった。存在自体も謎めいていた。背が高く痩せて青白く、彫りの深い顔で外人のような顔をしていた。夕暮れから夜にしか姿を現さない。それもいつの間にかそこにいるという感じだった。まるで小説から抜け出てきたような人だった。お酒を飲めば飲むほどにその青白い顔は白っぽくなっていく。初めてあってから、しばらくした頃この人からはじめて声をかけられた時の事だ。真剣な顔をして私の方をふり返り「ねえ、たばこの煙が目にからいってどう?」なんだか答えようがなかった。彼はじっと私の答えを待ちつつ、目をそらさなかった。私は困惑していたのだと思う。ふいに視線をそらして不思議な笑い声をあげて「もういいよ」といって他の人との会話に戻っていった。
後年、この時のことを聞くと単純にこの言い方が理解できるかという問いかけだった。武田泰淳が作品の中でこの言い回しが理解できなくて、文学は地方の人間じゃないと出来ないかもしれないと書いていたのだそうだ。そこで、ほやほやの田舎者である私にその言葉をぶつけてみたらしいことがわかった。この人は私の中での京都原人の一人である。母と二人暮らしだったのだが家を訪れてもその姿を見たことはなかった。二階に通じる階段からうずたかく積まれた本が、彼の部屋になだれ込むようにつながり、部屋のほとんどを占拠していた。ずっと後で知ったことだが(伝え聞きだったが)、当時はお寺の住職でありながら東北大学の教授であった叔父の庇護を受けていたのだそうだ。彼の従兄弟たちとも知己を得ることが出来たが、皆学究肌の才人で時々新聞の学芸欄でその名前を見ることがあるが、本人とはもう25年以上会っていない。

もう一人は、会社のお得様の一人で西陣の人だった。染色関係の高価な本を毎月買ってくれる上得意の客だった。いつも飄々として軽妙。話題も豊富で遊び人という感じの人だった。この人の話が面白く彼が会社に来ると私は自分の仕事とは関係ないのに、近くに行ってその会話を聞いたり楽しんだ。政治、経済に祇園の話。軽く話す中身が本格的で示唆に富んでいた。40を過ぎたくらいだったが、年を感じさせない人だった。
ある時、彼が私に1回うちにおいでと声をかけてくれた。担当者が「今度出来上がる本を持って行かせますさかい」と言って彼を見送った。
その後、担当者は「miyata君、先方さんがああ言うから本を持って行って。けど、気いつけや」といわれたことが気にかかった。半月ほどしてできたてのほやほやの本を持って、その人の会社に行くことになった。会社といっても大きな民家という感じで黒ずんで小さな看板が掛かっているだけだった。玄関から、「ごめんください」と入っていき、用件を告げてその人を呼んでもらった。出てきたその人は私の姿をみて、今まで見せたことがないような苦々しげな表情で「どこから入ってきてるんや、勝手口に回り。そこに置いたら帰ってよろしい」と言った。
この時は驚いた。少々のショックと、そうか、これが京都かと初めて出会ったような嬉しさというか悔しさというか複雑な気持ちで会社に帰り担当者にこのことを報告した。担当者は嬉しそうな顔をして、「ま、あんまり気にせんとき」と言いながらすぐに電話をして「本人が全然知らんもんですから、失礼しました。言い聞かせておきます」とかなんとか言っていたように思う。そういう関係で成り立っているということを少しだけ理解したのだった。次にその人が会社に来たときはそんなことは全然無かった風に、いつも通りの振る舞いで、やはり私も会話に加わった。
後年、社内ベンチャーのような形で私が会社を持とうとしたとき、本社の反対派の重鎮に「やらせてあげなさい」とその人が進言してくれたことを知った。ちょうどその頃、飲み屋で気炎を上げているときにばたっと出会い、その人は「あんまりな、はねたらいかん。たとえほんまでも、言いたこというもんやない。特に京都はな」と忠告してくれた。私はその人の諦念のようなものに触れた気がしたのだった。

京都の女性の印象はというと、下宿のおばさんに会社の同僚。それから、妻のことになる。一つの典型的な印象は「豹変」である。いつも二面性を孕み、しかも捻れている(ひねくれているという意味ではなく)。普段は温和なのに、自分の領域に踏み込まれると途端に豹変する。通俗的な一般化のような気もするが、そんな印象が拭えない。京都以外の人はその人の性格的な特性が日常的にいつもパーシャルな状態で発揮されているのだが、京都の人はなんだかちょっと違う。
花街から抜け出して下宿した先のおばさんは、ふくぶくとして温和そうで優しい人だった。洗濯物を干していてズボンが破れているのを発見してどうすべきかジッと見ていると、いきなり現れてそのズボンを繕ってくれたりした。そのおばさんがすごい剣幕で怒っているのが聞こえる。どうやらお隣の庭の木が自分の家に進出してじゃまになると言うことを抗議しているらしかった。その剣幕は普段の姿から想像できなくて思わずのけぞった。
会社の同僚もそうだった。普段はまさにおしとやかで柔らかい言葉を話すし、にこやかなのだが、何かの拍子に突然怒り出す。そのスイッチがどうも理解できない。私は幸い被害にあったことはないが、九州出身の奴や他の出身の女性でも時たまその洗礼にあっていた。
妻もやはりそうだった。エピソードは数限りなくあるが、それは割愛する。私は24歳で今の妻と結婚したから、早い時期にそういう感じをつかんだので、生粋の京都の女性と聞くとちょっと引く。

京都で生活していると、いつの間にか無意識に「京都」を意識させられるようになっているのに気づく。これは京都の人の無意識的な防衛反応がそうさせているのではないかと思いたくなるときがある。少しの日常会話が教訓に富んでおり、見えない約束事を少しずつ覚えさせられていく。かといって、全てを受け入れるわけではない。異邦人はどこまでも異邦人のままである。

親しげでいながら胸襟は開かない。京都の人の印象はそんなひんやりとした感じである。


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京都雑感 1 [徒然]

連休も終わってしまえばあっという間だった。連休の前半、かなり元気になった妻を車いすに座らせて散歩に出た。最初の予定は家の周囲をぐるっと回るくらいの予定だったのだが、あまりの陽気につい興に乗って四条通まで出て、祇園をぐるりと回り東山通りまで足を伸ばし石塀小路や産寧坂方面を押して歩いた。松原通を西に帰ろうとすると、妻はこのまま鴨川まで行くと言うから結局八の字を書くように4、5キロは車いすを押しただろうか。家に帰ると汗でびっしょりとなった。妻は「ああ、疲れた」と言ってすぐに横になったが、機嫌は悪くなかった。
歩きながら京都についていろいろ考えていた。どうして自分は今京都にいるのだろうか。またどうしてここに留まることになったのだろうかと。すぐに答えが出ると思っていたが、意外とそうでもないことに気がつき、ぼんやりとずっと考えていた。
私自身、京都にそれほどの愛着を感じていない事が留まり続けていることに対する答えを曖昧にしている。
京都に出てきた頃、下宿屋に張り出されている張り紙を見て奇異に感じたことがある。そこには鹿児島の人、下宿お断りと書かれていた。兄のところに行き、あれはどういう意味かと聞いたところ、部屋に集まっていた人々がそれはきっと幕末の時の恨みがあるんじゃないかというのを聞いて、まさかと驚いた。こんな事を思い出したのは息子との対話からだ。私が、京都の人は実はあまり歴史感覚ってないんじゃないかと言ったところ、息子は笑いながら「先の大戦って、京都では応仁の乱のことだからね」と言ったことが引き金だった。この話を聞いて、あの張り紙はまさに兄の下宿で話題になった通りかもしれないと思った。

私は「京都言葉」がずっと苦手だった。特に花街の言葉は好きではない。相手を突き放してどこかで馬鹿にしているようなニュアンスを感じるからだ。娘や息子が幼い頃、特に娘がなんでも「ちゃん」とか「さん」をつけて話すのが嫌だった。お地蔵さんは許せるにしても鳥や野菜にまで「さん」をつけることは無かろうと腹を立てると妻は、そんなことで怒るなんて変わってるねと笑っていた。
京都言葉で許せない言葉の一つに「おいど」(お尻)という言葉がある。結婚してしばらくして、初めてこの言葉を妻から聞いたとき、なんと下品で卑猥な言葉であろうかと驚いた。なぜかそのとき、そう感じた。

京都は不思議なところである。千二百年の都というけれども、そんな昔のものは殆ど残っていないのが京都である。だいたいほとんどが何度かの大火で焼けてしまっているのだ。そのかわり味も素っ気もない何々跡という石柱が街の至る所に立っている。説明の一つもない(いくつかにはある)。女性誌や旅行誌でいかにも京都らしい京都と紹介されるところで、ほんとに古いところは一つもないと言っても過言ではない。だけど日本中のほとんどの人は一度は京都を訪ね、また訪れてみたいと思っている。

私の今住んでいるところは、祇園の近くだし、宮川町は一筋先にあるからごく普通に舞子や芸子の姿を見かける。八百屋で買い物をしている後ろを舞子が歩いているのだ。実はこれが不思議で仕方がない。私にはどうしたって舞子の真っ白に塗られた白粉や真っ赤な口紅が明るさの中で日常風景にとけ込んでいるのが理解できないのだ。見せ物小屋のおどろおどろしい蛇女は小屋の中でこそ蛇女であるのに、ここでは白粉で顔を隠したおどろおどろしい姿で平気で闊歩している。

1970年代後半から80年代の半ばに勤めていた職場には、夕方になるとつばの広いヘプバーンがかぶっていたような帽子をかぶって、黒いワンピースだかスカートを身につけた痩せた老人が現れた。男性であった。ネックレスや腕輪などの装身具で飾り立てたその格好はどう見たって異様なものだったが、その人の物腰はごく自然だった。聞けばその道では有名な前衛芸術家であるということだった。
剣豪の役でそれなりの人気をはくしていた俳優は、人前でも当たり前のように「おねえ言葉」で話をした。彼は同僚のH君がお気に入りだった。ある時、その俳優が哲学の道で開いていた喫茶店にH君に変わって用を足しにいったところ、あからさまに「なんであんたが来たのよ」と面罵された。
また、河原町のジュリーと呼ばれた有名な今でいうホームレスがいた。髪の毛は伸び放題でしかも汚れで固まってしまっていた。足下は垢で真っ黒で服装はこびりついたような汚れで元の色を失っていた。かれはいつも人混みでごった返す河原町を歩き続けていた。そしてその人混みの中を女装の老人と河原町のジュリーは当たり前の風景のように交錯するのだ。唐十郎と麿赤児、それに四谷シモンが舞台衣装のままに河原町を練り歩いたことがあったがその出で立ちに通行人は一瞬驚いたようだったが、別に街が動揺するようなことはなかった。
だけど、それは本当にそうだったのだろうか。いつも若い女性客に「家付き、土地付き」をエサに嫁に来ないかと手当たり次第に声をかけていた初老のたばこ屋の親父は小さなガラス戸の奥で身を潜めて苦々しくこれらの風景を眺めていたのではないだろうか。いや、きっとあの古本屋の親父も見て見ぬふりをしながら五感を研ぎ澄ませていたのではないか。河原町の路地奥にあったレスビアンの夫婦がやっていた喫茶店では、きっと店のドアを開け表通りを盗み見ていたに違いない。
それから五条坂には、通り過ぎる車に飽くことなく大声で語りかけるホームレスがいた。子供たちは彼のことを「パペポのおじさん」と呼んでいた。何を話しているのか、聞き取れる人は誰もいなかったのだ。彼は、半年に1回くらい突然きれいになって現れた。保護されていたのだ。だけど、一週間もしないうちに見事に元の薄汚い格好に身をやつし、いつまでも通る車に語りかけていた。だけど、みんないなくなった。

今も橋の下にホームレスの人はいる。だが彼等はジュリーやパペポのおじさんのように表に出てこない。出てきてもだらしなく橋の上で身を投げ出しているだけだ。そしていつの間にかいなくなっている。汚いもの、普通ではないものを排除しようとしている隠された意志を感じる。

京都は本当はわびやさびに彩られた幽玄の街ではない。実はとても猥雑な街なのである。だが、近年その猥雑さを京都が失いつつあるのではないかと感じ始めている。花街では、習い事に時間を費やす舞子たちの昼間は、日本髪の着物姿であれ、化粧はなしで夜とは対照的な緊張感とある種のもの悲しさを漂わせていた。まだ日の明るい時に白粉姿を見ることは、そうなかった。

店の料理に添えて出す桜の枝を折ったと言って料理人が逮捕されることは無かった。花灯籠などという安っぽい演出をして観光客に媚びることはなかったのだ。
見せ物小屋のような異空間を日常にとけ込ませながら不親切にして猥雑。そしてそれを支えていたのは、産業であったことを京都の人々は忘れはじめているように思える。
市政便りなどの広報誌を見ると最近ほとんどの記事が観光都市京都に現実と未来の力点を置いているかのようだ。そのせいか、ここ数年、訪れる観光客数は毎年戦後の記録を塗り替えているらしい。だけど、私が生活する下町でその活況感を感じることもなければ聞くこともない。一時の低迷は脱したかもしれないが祇園町も歯抜けのようになっている。

私は京都がとりわけ好きだったことはないが、かつての不親切にして猥雑な京都に郷愁を感じる。京都のエネルギーは京都人が恥じるようなポーズを見せながら実は面白がり、密かに自慢している京都タワーのように、祇園のお茶屋街に目を疑うような奇妙なビルを建て、そこに店が密集し人が集まるという中にこそあるのではないかと思っている。なぜなら、それを支えるに足る基盤があったからこそであって、昔から観光都市であったかもしれないが、観光で支えられてきた事は、歴史的にも一度もないのだ。


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ボジョレー・3 長いけどこれでお終い。 [徒然]

たいしたことない自慢話やくだらぬおのろけを書いて、ちょっと気分が塞ぎはじめた。いささか躁状態であったようだ。というのも最近何がきっかけになったのか、記憶の洪水に押し流されそうになっている。溢れてくるひとつひとつの記憶が最後には耐え難い自己嫌悪の記憶に接続されていく。下降線に突入し始めたらしい。

ボジョレーヌーボーは、宣伝文句につい惹かれて9月の下旬に早々と予約した。案の定忘れてしまっていた。11月に入ってから案内が届いて思い出した。息子と甥の二人展がそれなりに成功だったようだし、二人も何か手応えを感じたらしいのでワインが届いたら打ち上げでもやるかということにした。

16日の朝、9時前にワインが届いた。よし!と2階に運んだら息子が、お母さんがお漏らししてるようだという。妻は赤い顔をして目を閉じたまま。掛け布団を剥がすと強烈な臭い。過去三本の指に入る大粗相であった。一瞬目が眩んだが、とにかくこぼさないようにパジャマ下着シーツ布団を全部ベランダの洗い場に運び、妻をトイレに連れて行く。背中まで汚れていてトイレではとてもきれいに出来ないのでお風呂場に。都合良く息子が早朝に風呂を沸かしていたので、入浴させた。
朝食を息子に頼み、洗い場で汚物を流して洗濯機に。布団は力任せに手洗い。朝食が済んだ妻はすっきりとした顔でテレビを見ていたが、やがて目がとろんとしてきたので布団を敷き直して横にさせるとすぐに寝始めた。ところが、突然食べたものを全部吐いてしまった。どうやら、風にやられていたらしい。パジャマと下着を着替えさせ、私の布団に寝かせてまた枕と上下布団にシーツと、パジャマ、下着をベランダの洗い場に運んで大奮闘。洗濯機もフル回転。午後になってヘルパーさんが来てくれた頃にようやく一段落したが、出鼻をくじかれたようで意気が上がらない。職場にいる息子に電話をかけ、どうやらお母さんは風邪らしいから今夜は大勢呼ぶのは止めてささやかにしようと伝える。料理もチーズとちょっとしたものを買ってきて済ますことにした。

ワイングラスを洗って拭いていると、よりによって私の大事にしていたグラスの柄がぽっきり折れた。傷がついていたのだろう。ここは日本なのにわざわざボジョレーヌーボーでお祝いするなんて考えるからこうなるんだと、いじけてくる。それでも、部屋の片付けを終えてから気を取り直して買い出しに行った。百貨店の食品売り場で適当にチーズを見繕い、あと簡単にサラミなどを買い家に帰ると、妻は起き出してヘルパーさんと楽しそうに談笑している。お腹が空いたというので用心のためおかゆを炊いて食べさせる。旺盛な食欲。
ヘルパーさんが帰った後、息子から電話。甥が風邪らしくてさっきまで元気だったのに突然気分が悪くなって吐いてしまい、熱が出て来れないという知らせ。いよいよ意気阻喪である。盛り付けたオードブルが寒々しい。脱力状態でテレビをぼんやり見ていると息子が帰ってきた。息子の彼女は8時頃になるという。

7時前に「おい、もうやろうぜ」といつもの家族三人で乾杯。妻は勿論形だけ。一度もどしてすっきりしたのか元気だ。だけど安心は出来ない。私と息子は何となく暗い。7時過ぎに電話がなる。神戸にいる義妹からだった。仕事の都合がついたので京都に来たとのこと。ちょっぴり明るい灯火が。
義妹は妻と二つ違い。生まれてすぐ跡継ぎのいなかった義母の実家に養女に出された。事情は幼い頃からお互い知っていて、とても仲がよい姉妹だった。妻は義妹を見て喜び、義妹は活きたタコとかアワビを神戸から持ってきてくれて、俄然食卓の雰囲気が明るくなり始めた。
8時前に息子の彼女がタンドリーチキンを持って現れると、部屋全体が明るくなったような気がした。娘からはなんの連絡もない。義妹が「どうしてるのよ!私が神戸からわざわざ出てきているのにあんたが来ないのはおかしいでしょ」と、電話をかけると娘は「完璧に忘れていた」とすっ飛んできた。娘が加わるといきなり賑やかを通り越して煩くなる。トイレに入っていると息子の声が聞こえてきた。「俺はあの時頑張った。お母さんが入院中、お父さんは仕事もあったし外で食事を済ませるのが楽だったかも知れないけど、このままでは家族がバラバラになって終わってしまうと思ったから、食事だけはみんなで家で食べようと主張した」。普段この弟とあまり仲が良くない(ようにみえる)娘が「そうや、あの時お前は頑張った」みたいなことを言っている。
そう、私だけではない子供達の介護生活がある。
ボジョレーが3本空いた頃に義妹の携帯電話が鳴る。義妹のご主人が京都に来たらしい。「パパ、ほんとに来たのね。偉いわ」なんて言っている。義妹のご主人が加わり、宴会はここで最高潮に達した。

12時前にそれぞれダウン。私はほろ酔いではあったがあまり量が進んでいなかったので簡単な後片付けをしていた。洗い物をしながら後ろを振り返ると義妹のご主人が座っている。この人のことは義妹とバツ一同志の再婚だというのは知っていたが、それ以外はあまり知らない。義妹は彼と再婚をして、自分の母と一緒に東京に引っ越した。ところが義妹の母が認知症となり、神戸に帰りたがったので2年前に神戸に移り住んだ。伯母は神戸に帰ってから安心したのか半年もした頃、この世を去った。大往生だった。産みの母ではなかったが義妹は最後までよく尽くした。品の良い可愛らしいおばあちゃんだった。妻も一緒に葬儀に参加した。義妹のご主人とはその時以来であった。顔は当時よりずいぶんふっくらとしたが痩身で背が高く、物腰は柔らかくて紳士ぜんとしている。がらっぱちの私とはまるで違う。ビールをもう一本いただいても良いかというので、私もグラスを出して一緒に飲み始めた。

彼と二人で話をするのはこれが初めてだった。少し話をしただけでかなりの教養の持ち主であることがわかった。彼は穏やかに、だけど切れ目無しに話し続けた。彼が官僚であったこと、天下りで出版社に勤め、そこを勤め上げ身辺整理もついたので妻と義母の希望に応えるために東京を引き払い神戸に来たこと。私が考えていたよりずっと歳をとっていたこと。戦時中の疎開の話、官僚の世界、彼が携わった法案のこと、法案作成の手順、そして現在の官僚批判。彼の話は続いた。私は適当に相づちを打ちながら話を聞いていた。彼は私に何を語ろうとしているのか、睡魔で朦朧としながら推し量りかねていた。そのうち彼がいじめ問題に言及しはじめた。私はそれを聞きながらふとMさんのエッセイが頭をよぎった。これはダーウィニズム?

いじめ問題で教育現場が迅速な対応が出来ないのは、出来ないのではなくそれを押し止め、あえて対応しないことを選択する理念が存在し、現実を遠ざけているのではないか。ならば、現実に起こったことが現場の校長や教師を取り替えたりしても本質は変わらない。理念は理念のために教育委員会をも簡単に解体するだろう。いや、それは解体ではなくより巧妙に見えないようにすることだ。そしてより強固に存続自体を目的化していくだろうとぼんやりした頭で考えていた。

彼は実際、素晴らしい人物だった。高潔であり、義母にも自分の妻に対しても犠牲的精神と優しさを十二分に発揮し、嘆くこともせず、潔く自分の妻の故郷で人生を終えようとしている。彼は相づちを打たなくなった私に気づいて、ようやく話を終えようとした。そして、「いやあ、こんなに喋ったのは久しぶりだ。君を最初に見かけたとき、正直こんな風に話をする事があるとは思いも寄らなかったよ。とても楽しかった。長々と勝手にお喋りして申し訳なかった。ありがとう」と言った。私は訪問してくれたことに対して礼を述べつつ「最初の印象は多分正しいでしょう。私はあなたとお話しが出来るような男じゃあ、なさそうです」と答えた。彼は一瞬私の真意を量りかねたような顔をしたが、何事もなかったように席を立ち寝室に向かった。午前3時をまわっていた。

miyata家初めてのボジョレーヌーボーを楽しむ集まりは、妻も含めて皆が楽しんだようだから良しとしよう。だけど来年はきっとしないと思う。そうそう、つい乗せられたボジョレーの宣伝文句。「鬼才ドミニク・ローランが贈るボジョレーヌーボー。このワインは寝かせても楽しめます。予約販売のみ。」
確かにおいしかった。来年もきっと買うと思う。


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ボジョレー・2 [徒然]

ワインの事は実は今もあまりよくわからない。最初にワインがおいしいと思ったのは飛行機の中で飲んだ白ワインだった。乗った飛行機がルフトハンザだからドイツワイン。あちらのスーパーでその銘柄を探してホテルで飲む。その程度だった。ただ、けっこう強烈なワイン体験がある。

ある時ベルギーを出発してフランスのアルルを通りすぎ、地中海に出て西の方に行った港町でのこと。町の名前は忘れた。海辺の町から山の方に上がっていくとそこに門があって、そこからなお深く山の方に入っていくと、見渡す山の稜線に風力発電の羽根が何十機も並んでいたのを思い出す。頂上辺りに今度は立派な門があり門番もいて、その門番に指示されて私たちは車を進めた。案内されたゲストハウスはワンフロアベッドが三つ。部屋で仕切られているのではなく、広い部屋に低い仕切りがあって寝室と居間が区切られていた。バスは二つ。ゲストハウスのバルコニーに出てみると、その前は大きくはないが野外のローマ風劇場になっていて度肝を抜かれた。視線をあげるとずっと向こうに今上がってきた港町と地中海が見えた。ここは個人が経営するワイナリーで、風力発電機が立っている山々も全部その人の土地だった。敷地内には一周5キロくらいのオフロードコースがありパリダカに出走する車がテストに訪れるということであった。

夜のパーティーは野外のバーベキューだった。小さなワイン樽が赤白セットで何カ所かに置いてあり、自由に飲むことが出来る。仔牛が二頭分大きな串に刺されて焼かれていて、そこに皿を持って行くと取り分けてくれる。ここで飲んだワインがおいしかった。赤ワインがこんなにおいしいとはこの時初めて知った。一緒に行った人(K氏としておく。彼がこのフランスの片田舎で開かれるイベントに選手として招待され、私もくっついていった)があまりのおいしさに、自分の部屋から空いたペットボトルを持ってきてここに入れて持って帰るという。そんな恥ずかしい事は止めろとか言い争いをしていると、そこのオーナーが近づいてきてワインは好きかと聞く。もちろん好きだし、ここのワインは素晴らしいというと、多分当時は日本人が珍しかったのだろう、ちょっとこっちへ来いと言ってワインの貯蔵庫に案内してくれた。このオーナーはかなり小柄だったが顔は浅黒くてちょっとジャン・ギャバンに似た渋い人だった。しゃがれたような声で話すのだが、それがまた映画か小説の中に自分がいるような錯覚をもたらすのだった。大きな樽が並ぶ貯蔵庫の中を説明してくれながら、あるワイン樽の前でこれまた映画のシーンのようにワイングラスを二つ持ち、小さな柄杓を樽に入れピューッと上からグラスに注ぎ込んで私たちに渡して、飲んでみろという。これが筆舌に尽くしがたいほどうまかった。どうだとオーナーが聞いてきた。うまいとしか答えようがなかった。オーナーは満足げに「ワインと娘は旅をさせるなということわざがある。出来たところで飲むワインがいちばんうまいんだ。ここのワインは世界一だ。今夜は好きなだけ飲んでいけ」と言われて二人が驚喜したことは言うまでもない。

翌日の朝、ガンガンする頭を抱えて案内された食堂に行くと、そこで給仕をしていたのは知的障害者の人達だった。食堂は従業員席と来客席とは仕切られていて、従業員席の方を見ると、その人達も皆がそうした障害者の人達だった。ここでイベントを主催したP氏は「彼がこのイベントのパトロンで、地元でも障害者に働き場所を与えるなど、篤志家の人なんだ」と教えてくれた。午後になって挨拶もそこそこにおいとまするとき、そこのワインを瓶に詰めて一人6本づつお土産に頂いた。高速の入り口がなかなかわからずに暗くなっても地道を走りながら、運転していたS君に「昨夜のワインは強烈においしかった。このもらったワインも同じものかなあ。ちょっと開けてみようか」と言って、一本開けた。S君は実は前の晩に熱を出して動けず、一緒に行ったK氏から無理矢理座薬を入れられて倒れるように寝ていたので、バーベキューやワインのことは知らないのだった。一口飲んだワインはまさに昨夜味わったワインそのもの。運転しているS君にそのまま渡す。グビッとラッパ飲みした瞬間にS君は「うめー!、なんだこのワインは!」と悲鳴のように叫んだ。このS君は後にいろいろヨーロッパを体験して、一緒にイタリアに行ったときなどおいしいワインをセレクトしてくれた。ただこのS君、馬力と能力はあったが飲んだ翌日は決まって二日酔いで仕事にならないのが難点といえば難点だった。

もらったワインの後日談として、帰国したとき関税に引っかかった。問答になったが税額を聞いてみるとわずかだったので、それを早く言えとさっさと支払を済ませて出てきた。降り立った空港は成田。初めての長旅を経験したこのワイン、京都まで持ち帰るには実に重いという事に気がついた。宅急便で送ることに気がつかなかったのはなぜかわからない。東京の事務所に2本、それから東京の知り合いに2本置いていくことにした。知り合いは有名会社のオーナー一族の人で、役員室では昼時になると秘書がその日のワインをセレクトして出すような私から見ると浮世離れした会社の経営者であったが、受付にそのワインを渡して早々に京都に帰った。二三日後、その人から電話が入り、あのワインはどこで手に入れたかと聞いてきた。イベント主催者のP氏はもともと彼の知り合いであったから、彼から聞けば手にはいるのではないかと伝えた。多分、気に入ったのであろう。その後手に入れたかどうかは聞いていない。京都に持ち帰ったワインだが、気がついた時はすでになかった。もちろん、飲んでしまったのは妻である・・。
一方、一緒に行ったS君の方は、ベルギーのアパートに置いておいたらK氏に全部飲まれたと憤慨していた。

だがその後もワインを買う習慣はなかった。事情が変わったのは息子が明治屋に就職が決まり、たまたま研修で使われた教材を見かけてからだ。本の書名は「明治屋食品辞典」と「明治屋酒類辞典」。この酒類辞典がなかなか面白い。へ〜、ワインってこんなんだったんだと、新たな興味が湧いた。それからちょこちょことワインを買い始めた。買う場所はあちこちに建ちはじめた激安リカーショップ。安いワインを数多く飲んでみて、自分の好みに合うワインを探し当てるという方法をとった。その時々によって好みは変わったが、今のところ好みの基本はフランスだというところに落ち着いている。でも、カリフォルニアワインとかオーストラリアワインとか、安くておいしいと思ったものは何本かまとめて買い置きしているのだが、だいたい気がつくと無くなっている。犯人は娘と息子である・・。

ネットで買い始めたのは妻が倒れてから。何カ所かのネットショップから買ったが、一度買うと毎日のように送られてくるメールが煩わしくなって買わなくなった。「わたし、○○ちゃんが見つけた宝石のようなワイン」とか、毎日毎日掘り出される最高のワインが、とても突き合いきれないような文章で送られてくるのには閉口した。今はたまたま見つけたデリバリーワインというところから買う。店長が元レーサーで、ヨーロッパを転戦していたらしい。ここはわりあい信用している。小型のワインセラーもここで買った。うるさいメールも毎日来ないし、推薦してくるワインも外れがない。(だけど最近新しいスタッフが増えたのか、メールの文章に以前ほどの格調がないな(苦笑)) 続く


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ボジョレー・1 [徒然]

※今日からやっと積んでおいた三好春樹の本を読み始めた。読後の感想とか、考えたことなど内容によってはここに書くか、別の場所にするのか改めて考えてみる。一応、参考図書とか関連図書にも全部目を通すつもり。これを機会に自分なりの介護の問題や認知症に関するイメージを構築してみたい。
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妻が倒れてから、通販やネットで買い物をすることがずいぶん増えた。通販は悩ましい。妻が購読していた通販生活は熟読する。カタログを見ると全部欲しくなってくる。おれはなんという俗物なんだろうと思いながら、この品物が手元に来たときの、ひょっとして劇的に変わるかもしれない生活(そんなはずがないことは熟知しているつもり)を想像している自分がいる。カタログのうたい文句は罪作りである。それでもふつふつとわき出てくる物欲を臨界まで解放して、徐々にまた押し込めていく時間はかなり充実している。私は雑誌、通販生活だけでなく送られてくるカタログ雑誌は基本的に好きである。ポストに舞い込んでくる由来の知れぬダイレクトメールに舌打ちしながらそのまま捨てる事もせず、つい中を覗いてしまう。
長い間どんなカタログやパンフであっても捨てられなくて積んでおいた。イベントカメラオーディオ、パソコン、家、土地、工具etc。介護生活をはじめるに当たって、家を改装したときに全部捨てた。段ボールに三箱もあった。抑えてきた自分の欲望の総量である。

若い頃酒をよく飲んだ。酒が好きだったかというとそうでもない。酔いたいから酔うまで飲むという感じだった。妻と結婚したとき、借りた新居は典型的なウナギの寝床だった。庭先に門があり、門を入って玄関に向かうと玄関はガラスの引き戸で、台所で炊事をしている妻の姿が見えた。結婚休暇の間は、妻の友人夫婦が家にいて、毎夜毎夜次から次へと友人達が訪れてきて(それもほとんど妻の友人達)酒盛りになった。新婚旅行どころではなかった。休暇が終わり仕事に復帰して二三日してようやく友人夫妻が引き上げて、これでやっとまっとうな生活に戻れると思った矢先の夕食の時。お膳に並んだ何品かのおかずを前にちょっとした充実感を味わっていたその時、妻が横に座って「お待たせ。さあ、やろうか」と一升瓶をドンと置いた。一気に脱力した。妻は正真正銘の酒飲みだったのである。
結婚して半年もしてからの事である。相変わらず来客がひきも切らなかった。居候が転がり込んできたり、賑やかだった。ある時妻が友人に「miyata君は晩酌しないのよ。あいつ意外とつまらない奴なんだよね」と話す声が酒盛りを避けて自分の部屋にいた私に聞こえてきた。思わず部屋を出て、「俺だってあんたがそんなに酒飲みとは知らなかったよ。せっかくまともな生活が出来ると思っていたのに」と言い返すと妻は平然と「結婚ごときで生まれ変われると本気で思ってたの?馬鹿だねえ。若いんだね、miyata君は」と鼻で笑われた。私は、妻との関係ですでに主導権は私の手中にない事を知り、愕然とした。

実はこれ、ボジョレーとワインの話のイントロなのである。なんて遠回りなんだろう。お酒にまつわる話を書いてるうちに、話の落ちがどこかに行ってしまった(笑)。結論から言うと、私はそれほど酒飲みではないが今年のボジョレーを宣伝文句に踊らされ、初めて予約してしまって、久しぶりに家で飲んだぞということを書きたかっただけなんだが・・。(続く)


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清岡卓行のこと [徒然]

昨夜9時過ぎ、畏友であり師でもある知人からめずらしく電話がかかってきた。
かけてきたきっかけは、なぜかすぐに解った。「清岡卓行が亡くなりましたね」電話口でその知人は切りだした。やはりというか、推測はあたっていた。

私は柄にもなく、いや今は柄にもなくだがあの当時は別にそういう柄に染まっていなかった40年前から10年ほど、つまり今の妻と結婚する頃まで、詩ばかり読んでいた時期があった。最初は誰もがたどるように萩原朔太郎に石川啄木、宮沢賢治、中原中也、立原道造といった詩人達からはじまり、多分に兄の影響もあったと思うが荒地の詩人達を夢中になって読んだ。鮎川信夫、森川義信、田村隆一、北村太郎、三好豐一郎、黒田三郎、中桐雅夫、木原孝一等。
なかでも好きだったのは鮎川信夫、田村隆一を筆頭に北村太郎などは、刊行される詩集はたいがい手に入れて読んだ。また吉本隆明の「転位のための十篇」に強烈な感動を覚えたり、茨木のり子、吉野弘、石原吉郎などに惹かれたが、私の意識の本棚のなかで少しだけ特別な場所を占めていたのが清岡卓行だった。めちゃくちゃ好きだというわけでもなく、なのにこの人は私の中で黒田三郎よりも間違いなく上位であり、鮎川信夫や田村隆一に劣るわけでも並ぶわけではないがけっして浸食されることがない場所をずっと占めていた。
今思うと多分、理由は二つほどあげられる。ひとつは原口統三の友人であったことと、当時周囲の少し上の世代の人たちの間でまるでバイブルのように読まれていた吉本隆明に対して、彼が控えめながら覚悟を秘めた反論をしていることを知ってからだ。それは吉本の詩人の戦争責任に対するものであったように思う。私は強面の論客である吉本隆明に対して正面から避けもせず、演じもせぬ彼の反論の仕方、立ち位置に感動し、支持した。
その彼が小説を書いて芥川賞をとった時、彼がプロ野球セリーグの事務局に勤め、公式日程を組む仕事を目立ちもせず実直にこなしながら詩を書いていたことを何かから読んで知っていたので、妙に嬉しかった。大連については大連小説全集上下巻があるが、どの小説も失望させなかった。
また、後に短いエッセイで知ることになった彼の家系に、独りよがりの縁を感じたのだった。
幕末の土佐勤王党に清岡道之助という人物があり、藩政改革と攘夷、武市瑞山の釈放を嘆願したが藩から逆臣とみなされ、二十三人の同士と共に私の生まれ育った奈半利町から始まる野根山街道に逃れたものの捕らわれ奈半利川の河原で処刑された。この二十三人の士達は大変優秀な連中だったそうで、もしあのまま逃れ、中岡慎太郎や坂本龍馬らと合流していれば維新後の明治体制も大きく変わっていたであろうとは、田舎の郷土史家から聞かされた憶えがある。清岡卓行はこの清岡道之助に繋がるらしいことを彼らしく控えめに書いていた。
お里が知れるので作品にまで踏み込むまい。喪失感や悲しみはない。透明感溢れるエロティシズム、明るさ、愛や悲しみにふさわしい人生を全うされたのだと信じる。合掌。

それにしても、詩を読むことに耽溺するのは一時の秘めた愉楽だったのだが電話の主はどうして、それも清岡卓行への少しばかりの傾倒を知っていたのだろうか・・。


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